2010年4月29日木曜日

小杉榲邨資料について少しだけ

のらねこさんのブログに「小杉榲邨と『 阿波國風土記編輯雜纂 』」との
気合いが入った記事が出てました。
敵うとか敵わないとかのレベルじゃなくて、改めて調査力と洞察力の凄さを
思い知らされます。
で、敵わぬまでも(←まだこんな事言ってるよ)小杉榲邨について出し惜し
みしてた隠し玉を少しだけ出してしまいましょう。(←ケチくさー)

国立国会図書館所蔵小杉文庫についての解説資料中に下記のような一文を
見つけてました。

「小杉榲邨旧蔵資料の散逸と現在の所蔵機関」
ほーら、自分の体がこんな事を書くのはもったいないと言ってる。
(うそうそ、一人じゃ調べきれないので書いちゃいます)
長文ですけど引用しちゃいます。
中途の部分なので、解りにくい所を少し編集してます。

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現在の主な所蔵機関について、当館(国立国会図書館)のほか
静岡県立美術館小杉文庫
北海学園大学附属北駕文庫
東京都立中央図書館
国文学研究 資料館史料館を
『国立国会図書館百科』は、そのほか東京国立博物館
東京大学史料編纂所を挙げている。
一方、川瀬一馬氏によれば、和田維四郎 (雲村)が小杉本を収集したとのことであり、雲邨文庫は、現在東洋文庫内 の岩崎文庫と大東急記念文庫内の久原文庫に分蔵されている。
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おー、だいぶでてきたでしょ。
それぞれの機関の説明はというと

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①静岡県立美術館 藤江家に伝わった古典籍・書画・拓本類347件。美術品的なものが多い。『藤江家旧蹟小杉文庫目録』『小杉文庫名品抄』

②北海学園大学附属北駕文庫  『行啓紀念北駕文庫蔵書略目録第一巻』「小杉博士の部」によれば古典籍類、神祇関連資料を中心に130件がみられる。

③東京都立中央図書館  『加賀文庫分類目録』中に、庭園関係、和歌関係 の書籍など8件がみられる。蔵書印の情報は掲載されていないため、小杉榲邨の編綴本や書写本以外については未詳。

④国文学研究資料館史料館『史料館収蔵史料総覧』により「小杉榲邨収集文書』および『徴古雑抄』2件331点が確認できる。前者には『東大寺正倉院文書』の写本なども含まれている。

⑤東京国立博物館  『東京国立博物館蔵書目録』和書1-2によれば、神祇、歴史、考古関係資料中心に133件がみえる。小杉榲邨の書写本及び蔵書印が ある資料を抽出した。

⑥東京大学史料編纂所『小杉美二郎氏ヨリ購入書庫目録』及び「所蔵史料データベース」によって、20数件の資料が所蔵されていることが分かる。 古経典などの善本が多い。また、小杉榲邨および養嗣子美二郎への史料採訪 の結果収集された、小杉本の写本や写真も数多く収蔵されている。

⑦東洋文庫・大東急記念文庫 岩崎文庫を悉皆調査したところ10件、『大東急記念文庫書目』から9件の小杉本が確認できた。

 各地の図書館に四散した小杉本の全体像を復元ずるごとは困難であるとは 、いえ、主要な機関に残されている小杉本と小杉楓邨の生涯・著作を併せ考えると、古典籍・古文書の網羅的収集に加え、神祇関係、美術・工芸関係、歴史・考古関係の資料を多く所蔵していたと推定できる。


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この前「ぐーたら」が北海学園大学資料を追っかけてたと書いてあったのは、ここからです。神祇関連資料と目録に見たいのがあったんですが、資料名だけで内容が不明です。
いくら何でも北海道まではいけませんし、いちいちコピーなりを取り寄せてたんじゃいくらかかるか分りません。
それはさておき、この「国立国会図書館所蔵小杉文庫」の所蔵は?というと。
ウィーン博覧会関係の資料が多くどちらかと言えば『東京国立博物館蔵書目録』のほうに
阿波関係の資料名が散見されます。

『重訂御書籍目録』
『和学所等書籍目録』
『粟田日記』
『諸神本懐集』
『白川家服仮雑穢略抄』
『白川家神道秘書』
『神器考証』
『熊野神社考定』
『熊野新宮神宝図』
『直毘霊補注』
『日本神字考』
『神代文字考』
『異体文字』
『日本正紀序』
『逸号年表』
『山陵考略』
『旧考余録』
『日神地名録』
『石見国地誌ぬき書』
『伊予国旧跡考』
『箋釈豊後風土記』
『上古備中国五郡図』
『淡路国全図』
『天平七年弘福寺領、讃岐国山田郡古図』
『阿波国祖谷山菅生氏所蔵旗銘紋』
『阿波国祖谷山阿佐氏所蔵◯銘紋』
『阿波国助浦郡田之浦村発掘破甲図』
『淡路国之図』
『阿波国名東郡宮神像』
『阿波国鳴門真景』
『阿波三図』
『阿波野冊図』
『出雲大社図』
『伊予国三島神社所蔵古鏡銘』
『阿州雲辺寺門』
『宮城図』
『享保年間徳島方角図』
『皇太神宮宮域図』
『御即位図』
『斎宮寮斎宮領図』
『月読宮宮城図』

目録中、関係ありそうな文献を記してみました。
タイトルだけなんで関係ないのもだいぶ混じってると思います。
最後の『月読宮宮城図』なんて凄そうじゃないですか。
また、『神代文字考』もぜひ一読したい書名です。
ただ、「東京国立博物館蔵書目録」「国立国会図書館所蔵小杉文庫」には
阿波の風土記関係書名は顕われてきてません。
今後、上記機関の目録などを調べていくつもりですが、いや気が遠くなりそうです。

最後に資料中の一文を記しておきます。
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その後、藩内の尊皇・佐幕の争いに関与して幽閉された小杉は、その間 「万葉集」「古事記伝」などを精読する機会を得るとともに、「遺存古文書考証」「本国風土記名跡考」を構想する。

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「本国風土記名跡考」これが何を意味するかはお分かりですよね。

2010年4月24日土曜日

甘い生活(蜜月の終わり)

4月の初めに「阿波国風土記」(阿波國風土記編輯雜纂)を入手しはや数週間
この資料との蜜月も終わろうとしています。
見れば見るほどに興味深い文章が記されていて、飽きる事がありません。
しかし、前回の記事にも書きましたが、個人としてこの資料を調べていくには
やはり限界があります。
能力と時間と熱意でしょうか。
まずは能力です。
前回、崩し文字は読めないとか泣き言を書いてましたら福本さんとおっしゃる方
から、
>徳島県立文書館へ行かれたことがありますか。古文書講座が開催されていたり、
>読めない文字の解読をしてくれたりと参考になるでしょう。

などのコメントをいただきました。ありがとうございます。
もちろん、このような公共の施設、講座も利用したいと考えてますが
なんと言ってもこの資料まず量が膨大です。
コピーはA3の用紙で400枚を超えています。見開きの画像ですのでページ数にすれ
ばその倍800ページ以上となります。
そして、その大半が雑纂ですので内容の書き込みが細かい。
また複数の人が書いているので項ごとに字体が全く違います。
少し表示してみます。
全てクリックすれば拡大されるはずです。


この形で数十ページ続きます。
すごい書き込みの量ですがこの
中にとんでもない事が書かれて
たりするんですね。

















この項も同様何十ページも続きます。


このあたりは達筆で、しかも滲んでます。



今までに掲示してきた一部の画像は見やすい所を選んでたつもりです。
なおかつ書いてある事が検証不可能な事が山盛りです。
前にも書きましたが



天日鷲命の御陵は麻植塚にあった?


なんてどうやって調べます?
ちょっとお手上げになってきてるのが解ってくれますか。
そこで、この際と言うものでもないでしょうが

「阿波国風土記」Web上で公開してしまいましょうか?


公開した上で、内容の解読について当ブログを見ていただいてる皆様の力をお借
りしたいと思います。
これも前に

おーい、どうなってるんだー


でも書いたようにどこかこの資料を公開してくれる機関があれば寄贈しようと
思ってました。
でも、県立図書館や県立文書館に寄贈した場合多分装丁はしてくれるでしょう
それで棚において終わり、じゃないでしょうか。
それでは嫌なんです。このたびもWeb上の検索システムには非常にお世話になり
ました。でも文書名が検索できるだけではなく内容がWeb上で見えなければ足り
ません。

最近も「小杉榲邨」の蔵書目録内のある文書を追いかけてましたが「国会図書館」
から「東京国立博物館」と進み「北海学園大学」で途切れてしまいました。
文書名は検索できるのですが、内容が見えません。
国学院大学のデジタルミュージアムなどはすごい情報量でいつもお世話になってま
すが、一般的に資料のデジタル化はまだまだ進んでないようです。

県立図書館に寄贈した場合、内容をデジタル化して公開。多分してくれないでしょう。
実際「阿府志」も「阿波誌」もデジタル化されてません。
「阿府志」なんて図書館に行って何回ページをめくった事でしょう。
図書館の予算が激減されている今、期待すらできません。

じつは筑波大学附属図書館にはメールで問い合わせをしてました。
Webでの公開は可能なのか、不可能な場合クローズドのサイトならかまわないか
などです。
回答としては、
「所定の申請書を提出してください。」
「サイトに記載の規則は守ってください。」
などという事でしたので、申請すれば許可されるのではないかと思ってます。
(まだ申請書は出してません♡)

ただし
「ぐーたら」が勝手に考えた事なので、もしかしてひとりで空回りしてるんなら
それは嫌なので。
「阿波国風土記」(明治版ですよ)が見たいよー、内容の解読に参加するよー
という方は、ぜひとも「コメント」欄に記入してください。
メールでも結構です。左ツールバー「Contact」下の「to ぐーたら」をクリックして
メールしてください。
十人単位で集まれば公開しようと思います。
その場合、サイトの構築と画像の作成、アップについては「ぐーたら」がやって
しまおうかなと考えてます。
(おっと、これは自分で自分の首を絞めてるのか!!)
集まらなければ、県立図書館に寄贈して終わりにします。
今まで通り、ぽちぽち内容を検証しつつ記事にしていきます。

いかがでしょうか?
個人が趣味でやるには行き過ぎだよって、いうのならそれも正しいでしょう。
自分でもそう思ってますから。この記事もやりすぎでしょう。
でも反面一度ぐらいやりすぎてもいいかな、とも思ってます。


最近は読者も増えてます。のらねこさんのブログのおかげです。
加古川、保土ヶ谷、神奈川、高松などからも見てくれる人がいるみたいです。
(もちろん、鹿児島、脇町からも)
岩利氏の時代には考えられなかった事が、今はネット上でできます。
全国から「阿波国風土記」の解読メンバーを集めてもいいじゃないですか。
皆で凄い事ができるかもしれないじゃないですか。
潰れたら、潰れたで「あーあ」と言ってしまいましょう。リスクはないんです。

さて、「ぐーたら」から檄は飛ばしました。
いかがでしょうか。「ぐーたら」の熱意が冷めない間に.......




2010年4月22日木曜日

新たなる疑問

数日間遊んでました。
わけじゃなく、勤め人なんでなかなか忙しいときもあるのです。(信じてないだろ)
で、例の(明治版?幕末版)阿波国風土記でありますが見れば見るほど、読めば
読むほど疑問が次々と湧いて参ります。
読めば読むほどと書きましたが実は読めないのです。
そう、筆文字、行書、崩し文字ははっきり言ってお手上げです。
「古文書のよみかた」なる本を買ってきてはみたものの、所宣は付け焼き刃
いかんともしがたい状況です。
判る(読める)字から推測していくうちにいくつか「!」と言う文字が頭から
出てくる箇所がいくつか見つかりました。
まずは画像を。

見えますか?
今上天皇 御穿鑿のた◯風土記編輯の勅命....
と読めませんか?今上天皇が風土記編纂の勅命を出した?

今上天皇、つまりはその時在位していた天皇のことです。
その時、風土記編輯掛発足時在位の天皇は明治天皇ですが
その勅を出したのは多分その数年前でしょう。
つまり孝明天皇ではないでしょうか。
孝明天皇はあくまで攘夷にこだわった天皇として知られています。
水戸藩に密使を送ったりもしてたようです。
(そうか、水戸藩か....... 筑波大学か........ )
暗殺されたという説もあります。
もし、そうであれば何のために編纂を命じたのか。
ぐーたら個人には、どうも物事を面白い方、面白い方に考えてしまう
癖があるのですが(妄想とも言う)
ここまで来てしまうと、想像力の範囲を超えてます。
ほんとに「ヤバイ」かなあ。
それに何が「御穿鑿(ごせんさく)」なんでしょうね。
あと10回ぐらい前後の文章を唸りながら考えてみますけど。


あと、もう一つ。

全部は文字にしませんけど、

「是より下次の巻にて元文年.......」

と、ありますがこの文章最終巻の五巻目に載ってます。
「続きがまだあるの?」と読めませんか?
疑問は尽きません。

結論として、崩し文字は難しいということです。
今日はこのあたりで。



ところで、なんですが
えー、次回このブログ更新時にちょっとお知らせをと
考えてます。





【訂正】
上の画像、今上天皇じゃなくて今上皇帝になってます。
ちょっとカンチガイかもしれません。
けど、天皇と解釈してもいいのかもしれません。
と、逃げを打っておきます。そうです、卑怯者なんです。

2010年4月17日土曜日

曾禰 好忠(そねのよしただ)出自は阿波か?

由良の門(と)を 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな

と、高尚に始まりました。

小倉百人一首に詠まれています曽禰好忠の歌です。
























出典は新古今集巻十一とのことですが、まだ確認できてません(えへ)
ただ、小倉百人一首に詠まれてる事はすぐ分りますよね。
で、この曽禰好忠なんですが、どういう人かというと

曾禰 好忠(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳。中古三十六歌仙の一人。長く地方官である丹後掾であったことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。 Wikipediaより

とあります。また脚注に
古代氏族としての曾禰氏(曾禰連、曾禰造、曾禰宿禰)は物部氏の一族とされ、『新撰姓氏録』でも石上同祖(左京神別)、饒速日命の六世孫伊香色雄命の後裔(右京神別)、あるいは采女臣同祖(和泉神別)との記述がある。但し、好忠が物部氏族の曾禰連に連なるのかどうかははっきりしない。

とあり、要はよくわからないってことですね。
長保五年(1003年)に七十数歳だったということなので、延長(923年)の終わりから
承平(931年)頃の生まれでしょう。
この曾禰 好忠のことを調べてた訳じゃないんですが、中王子神社にある粟凡直弟臣の墓から
粟凡直一族のことを調べてました。
もちろん阿波藩勅命版「阿波国風土記」よりです。
その中に「阿波国舊世縣主及國司領家歴代記」という項目がありまして
(タイトルだけでわくわくするでしょ?)
その中の一文にあります。引用しましょう。
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孝謙天皇ノ朝天平寳字二年此年粟凡直トス従五位豊野眞人
篠原為阿波守府中村ノ西南ノ地ニ國●ヲ造リ玉フ故ニ長田別ノ
御子孫舊府天城ヨリ御私領海部曽称ノ(ノがあるかはっきりしない)縣ニ退キ玉フ故朝廷ヨリ
曽称ノ姓ヲ賜ル曽称ノ好忠ハ此後胤也百人一首ノ歌
     由良ノ門ヲ 渡ル舩人
     楫ヲタエ行衛モ知ヌ
戀ノ道カナ此御歌深味ハヘ(「ヘ」か?)此後國司五年ニ交代トナル●レ守一人介一人
掾一人目一人史生三人郡領大小アリ地頭領家ト如故
-----------------------------------------

厳しいなあ、出てこない字がたくさんあります。
























































画像を見てください。ちょっと拡大図は解像度がバラバラになってしまいましたが。
見れば分ります。ここでは「曽称ノ好忠」となってますが
「由良の門.......」で始まる歌を詠んだ歌人と言えば「曾禰 好忠」しかいませんよね。
「粟凡直」にかかるのか「豊野眞人篠原為阿波守」に掛かるのかがこの文脈では読み
切れませんが、それが「曽称ノ好忠ハ此後胤也」、後胤つまり子孫であると明記されてます。
出自は阿波だと断言できますね。
また「海部曽称ノ縣ニ退キ玉フ故朝廷ヨリ曽称ノ姓ヲ賜ル」とありますよね。
「海部の曽称の県(地方)に退いたので、朝廷より曽称の姓を賜った」
ここにある「曽称」は「曾禰」と同義でいいと思いますが、この時「曽称」「曾禰」
姓を賜ったのであるならばWikipedia注釈にあるような
「古代氏族としての曾禰氏(曾禰連、曾禰造、曾禰宿禰)は物部氏の一族とされ...」
という解釈ができなくなってしまします。
つまり曾禰 好忠は一般的に言われている、物部氏の系譜ではなかったのでしょうか?
それともニギハヤヒミコトが祖先であると言われる物部氏の出自自体が阿波にあった
ということでしょうか?
謎が謎を呼んでしまいましたが、少なくとも出自が全く不明である曾禰 好忠の祖先が
阿波人であったという説の一石を投げる事ができたと思ってます。
これって結構すごくないですか?
偉い?ほめて、ほめて。(by 幼児返りをした ぐーたら)

この前後の文章にもつつきたい所はあるんですが、夜も更けた事ですし今日はこのあたりで。





2010年4月15日木曜日

どうしよう

どうしましょう。困ってしまいました。
以前 

多祁御奈刀弥神社へ行ってきました

(その2)

で書いた時に、石井町石井諏訪の多祁御奈刀弥神社で撮っ
た地神塔の写真です。
そのときは使わなかったのですが見直していて気が付きました。





















地神塔の左の木の所に白い球みたいなのが写ってますよね。
拡大します。



























雨は降ってましたけど他の写真には雨粒らしきものは何にも写ってません。
すいません。
ぜひとも誰かコメントしてください。何でもいいです。


2010年4月12日月曜日

当たり前だと思ってました

今日はバテバテで書くつもりは無かったんですがちょっとだけ。
例の物についてはもうちょっと調べてから書きます。

最近、間違いに気付きました。
どうも自分が当たり前だと思ってる事が他の人にはそうでない。
特に他県の人のブログを見てるとそうとしか思えない事が多々あり
まして、こんな考えに至っております。

例えば
「万葉集注釈」いわゆる「仙覚抄」にあるところの「阿波風土記」逸文。

阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水(しみづ)。此より出づ。勝間
井と名づくる所以(ゆゑ)は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。已上。
萬葉集註釋 卷第七

有名な勝間の井戸についてなんですが。
倭建命が大御櫛笥を忘れた場所というので阿波風土記に曰くと
の記載があるのに
阿波じゃないように思われております。
倭建命は尾張から焼津、相模から上総はたまた武蔵、上野と巡り巡って三重県亀山市の能煩野で亡くなり白鳥は羽曳野へ飛んでゆく、と言われており阿波の付け入る隙は全くございませんね。

で、萬葉集註釋の勝間井、あんまり近所すぎて意識すらしておりませんでした。
というか頭の中では倭建命がいらせられましたのは既定の事実だったのです。

前置きが長いですね。
まず萬葉集註釋 第七巻

















該当の部分です。

次に家から自転車で5、6分のところにあるここ。
見ての通り住宅地の真ん中。スーパーに買い物に行くときなんか
この附近を通ったりします。






















「舌洗いの池」と
呼ばれてます。























中の島に鳥居があり神社が祀られております。

説明書きがこれ。























説明はいりませんね。1185年の時点で「勝間の井戸」と呼ばれているのです。
場所はここ。徳島市国府町観音寺





















白鳥神社へ行ってきました


でも書きました。倭建命の陵(みささぎ)はここからわずか1キロほど。

またこの辺りは古の大城「海城」(あまぎ)があったと言われる場所。

井戸の辺りまでが城内であったと言われています。

これ以上何をいうことがありますか?

国府町観音寺のあたりで年配の方誰にでも「勝間の井戸は?」と聞いてください。

多分知っています。(急に弱気)

疑う人は上記の1185年の記載を疑うでしょうし白鳥陵のことも疑うでしょう。

でも、このようにあるがままに在るのです。

あー疲れた。寝よ寝よ。






2010年4月11日日曜日

パワースポットがトレンドですか?

ウィークデーは忙しくてなかなか記事を書けないので
こうやって休みの日にまとめて更新してます。(来週がまた忙しいんだ)

で、(何が「で」なんだよって、もう書き飽きましたけどやめられない)
どこへ出しても恥ずかしいおじさんの私でございますが、なにやら最近は
トレンドなる言葉でもって「パワースポット」とやらが流行っていると
言うではありませんか。
これは一つ乗って見ようじゃないですか。
「このごろトレンドのパワースポットに行ってみようじゃん」と言えば
いいんですかね?
いわゆる「痛い」おじさんですね。

Webでいろいろみてますと、代表的なパワースポットとして関西では
伊勢神宮、鞍馬山や貴船神社などが挙げられています。
徳島県はというと「剣山」「霊山寺」などが検索の上位に出てきます。

個人的にはパワースポットって言葉があまりピンとこなくて、まあ行けば
元気になる場所、程度に考えてます。
ただ、ずっと巡り巡ってる神社などはほんとに異界だなって感じるときが
多々ありますね。
でも、こんな事書いてるとスピリチュアル系のちょっと苦手な方々が来そう
で怖いんですが。

私的なパワースポットとしては

ここ宮谷古墳頂上と

















それと、ここ。


















個人的には上の宮谷古墳の方が効果がある感じです。
見晴しもいいですしね。
週に一回くらいは犬を連れていってますが。(あと始末はちゃんとしてますぜ)
ここでこんなものを発見。
何年も通ってるのに今まで気付きませんでした。























この木の根元の石。拡大します。























これでも見にくいかな?デジカメ持ってなくて
携帯で撮ったんでもう一つですけど
人工的な丸い穴。
どうも丹摺り石(にずりいし)に見えて仕方ないんですが。
徳島の神社に残ってるようなきちんとした形じゃありませんが
どうも、それっぽく見えて仕方ありません。

丹(に)は水銀の事で古代朱色の染料として使われていました。
非常に貴重なもので祭祀などに使われていました。
その丹を摺って粉にしていたのが丹摺り石です。
「それと、ここ。」って書いてある写真の場所からも慶応三年まで水銀朱が染み出ていた
という記録があります。
なので、この古墳にあっても何の不思議も無いんですが
よりによってこんな木の根元にぽつんと。

徳島の人々は神社などにある石碑、石のかけら等、基本的に一切動かしません。
工事とかでどうしてもという時以外、あるがままに置いておきます。
ですので、この石も古墳の整備事業の時出てきて以来、誰の手にも触れられていない
可能性もあります。(近所の子供の事は知らないよ)
多分これからも動かされる事は無いでしょう。

(注)これ読んで来て、触っちゃだめだよ。

で、(←おい)ここは今日も私めのパワースポットということで
おあとがよろしいようで。

2010年4月10日土曜日

月の宮 手久野神社

徳島市の入田町は鮎喰川を挟んで南北に広がり、「内の御田」という地名も残っています。
また知る人ぞ知る「天の原」の地名は徳島市バス、天の原線終点の停留所として有名です。
あるいは高天原の比定地として有力ではないかとの説もあります。
下のマップを見てほしいのですが、ここに「手久野神社」という神社が記されています。
















延喜式には載っていません。
この神社名については聞いた事もありませんでした。
徳島県神社誌にも載っていません。
徳島にはこの月の宮に近い所に一宮町、以前にもこのブログに書いたんですが
徳島市の佐古に海の宮があります。
で、月の宮で連想するのが「月読命」月読神についてはほとんど分っていない事ばかりです。
何か関連があるのではないかとの推定の元に今日行ってきました。
驚愕の事実が判明いたしました。
写真はありません。
カメラは持っていきましたがあえて撮っていません。
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テクノ月の宮っていう工業団地のなかの新造の神社じゃん。
だってGoogleMapじゃ団地名まで表示されなかったんだもの。
手久野•テクノだって。

ああー、せっかくここ2日ほどアクセスが増えてるのに
自分で砂をかけてるよおお。

すいません、すいません。申し訳ございません。
次はもうちょっとまともな事を書きますので見捨てないでください。











2010年4月9日金曜日

解説はなしよ


あんまり面白すぎるので、ヤバいかなと思いつつ書いちゃいます。
いけないこととは知りつつも、画像も載せちゃいます。
今の時点ではこの内容についてぜんぜん調べてないし裏付けもありません。
なので説明、解説はなし!(←いばるなよ)
出典についても(今は)書きません。(え!分るって?)




途中から文字にします。


天津國玉神ノ御子天日鷲命ハ即日向皇子
ニテ是天石門別神其御霊ヲ倭大國玉神ト
イフ天石門別神櫛磐竃神ノ后神ヲ天石門
別八倉姫トイフ次妃豊玉姫ハ椎根津彦ノ
祖ナリ天石門別ノ子ニ非サル事ハ別ニ記
ス其御子御間都比古即大若子命一名大
幡主命....................


天津國玉神の御子、天日鷲命は日向皇子のことで、これは天石門別神のこと。
その御霊を倭大國玉神という。
天石門別神(櫛磐竃神)の妃の神を天石門別八倉姫という。
次の妃である豊玉姫は椎根津彦の祖先である。
天石門別の子でない事は別に記す。
その御子、御間都比古すなわち大若子命またの名を大幡主命.............


天石門別神=天手力男神であるならば......
うわあああああああああああああああああああああああああああ

ではまた。



コメントが少ないのがさびしいよお。
Bloggerは分りにくいんですね。
下にある「コメント」の文字をクリック。プロフィールは「名前/URL」を選ぶだけなんですけど。







2010年4月6日火曜日

おーい、どうなってるんだー

最近入手した資料について考えておりました。
このまま自分が持っていても世のため人のためにならない。
それならばどうするか?
うん、しかるべき機関へ寄贈しようではないか。
できるならばこの資料を世に広く知らしめてくれるような組織がいいだろう。
もちろん心当たりは無い。
どこへ相談しよう。
そうだ!新聞社だ!!
みんなよく知っているT新聞へ相談してみよう。
あそこならばこの資料の価値を理解してくれる団体を知っているだろう。
メールで相談すれば返事をくれるかな?
よし、かきかきかき........
    ぐーたらともうします
      こんなすてきな資料がてにはいったので
        もらってくれて、みんなに広めてくれるような
          そんなところ知りませんか?
           とくしまけんのためになりますよ(ここまでは書いてない)

いっぱい書きました。
一生懸命書きました。
つたわるかな。どきどき
おっと、返事だ回答だ。

>お問い合わせの件ですが、徳島県立文書館または徳島県立図書館がよいかと思われます。

そうか、これだけか。
いいよ、わかったよ。
書名まで書いたんだよ。



って。

2010年4月4日日曜日

天日鷲命の御陵は麻植塚にあった?

天日鷲命(あめのひわしのみこと)といえば言うまでもなく阿波忌部の
祖神であり、徳島県麻植郡山川町高越山に高越神社としてまつられています。

岩戸の神事を司った神である天太玉命(あまのふとだまのみこと)が
忌部の祖神であり、阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の
義理の兄弟であるということです。
徳島県鳴門市の大麻比古神社は、天日鷲命の子孫が祀られ、忌部
神社にも天日鷲命が祀られています。

で、最近見つけた資料によると、この「天日鷲命」の御陵が
徳島県吉野川市鴨島町の麻植塚にあるというではありませんか。
確かに「麻植塚」とは「麻」を「植える」「塚」の意味でしょうし

「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして
 十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、
 大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、
 麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

とありますので由来としては疑うべきところはありませんよね。

では、いきましょう


「麻植郡麻植塚村舊跡傳」より
麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
其ノ處ハ麻植郡麻植塚村ト云
麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云

神ノ山とは今の向麻山(こうのやま)のことです。
「麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ」
と明記されています。
さらには

麻植塚
コノ御陵ノ南ニ當ツテ麻植塚前ノ同處ト地ノ字ニ残レリ
コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
同地トアリ
神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

詳細かつ具体的な記載ですね。
地元の人なら納得できるでしょう。
いかがですか?
地元の方、もし見てましたら向麻山の北側に五社神
と言う神体五ツがあるか教えていただけませんか。
それがあればこの記述は本物と言えるんじゃないでしょうか。
おー、えらいことですね。

2010年4月3日土曜日

花の宴(うたげ)

長らく間が空いてしまいました。
ほんとにぐーたらでございます。
それもさておき、タイトルの気延日記がここんところひとつも
なかったということで、たまには書いてみようじゃないですか。
(おいおい)
ここ徳島市内では1週間前くらいから桜が開花しはじめ、数日前の強風で終わったかな?
と思ってしまいましたが、本日と明日ぐらいで満開の時期を迎えました。

八倉比売神社の一の鳥居(ほんとは二の鳥居)から望んでも桜が満開の様子が見えます。






日頃は土日でも閑散としているここ阿波史跡公園、矢野古墳ですが
今日はこれ、この通り花見の人たちでいっぱいです。(ニュース調)



いつもの犬を連れての散歩コースなのですが
人がいっぱいなのが嫌いなので早々に退散してきました。
この公園は人がごく少ないのがいつもの事なので、こんなに
人が多いと調子が狂っちゃいます。
おっとなんて失礼な事を言ってるんでしょうね。



でもゴミだけは残しておかないでね、と心の中で(by地元)



今日は杉尾山の神々に感謝しに来たのです。
でもこんなにたくさんの人が花見に来る方が神々は喜んでるかもしれません。