2010年5月29日土曜日

天石門別八倉比賣大神御本記(おまけ)

まず
天石門別八倉比賣大神御本記 
天石門別八倉比賣大神御本記(2)
天石門別八倉比賣大神御本記(3)
天石門別八倉比賣大神御本記(4)
をご覧ください。

やっとここまでたどり着きました。
最終回のおまけです。
じつは一回アップしてたんですけど何を血迷ったのか削除してしまいました。
半分寝ながら書いてたら知らないうちに「削除」ボタンをポチッと。
うああ、と思った時には「確認」ボタンまで押してると言う始末。
耄碌じいさんと呼んでください。

で、おまけは「杉の小山の記」の序文です。
なぜ、序文を最後に紹介するのか?それは歴史の闇の.....、もういいか。
書いたのは「本居太平」。かの「本居宣長」の養子の方です。
これを頭に置いて読んでみてください。
現代語訳はおもいっきり砕いて書いてみました。
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阿波國矢野の人、柳の園の森眞秀、此書をもち来て、おのれにはしぶミかきそへよとこふによりて、いでやとて見れば、かしこの名西郡の矢野村にしづまりまします、杉尾の神社のゆゑよし記(しる)したる書なり。
そはもとより、ふるく傅はれる社家の記ありて、古代のかきさまに正文字(まさもじ)、眞假字(まかな)まじへてかきたるふミにて、ふとは、よミくたしがたき所〃あれは、その本書(もとつふみ)のまゝに、あらたに假字(かな)がきにあらためしるしたるなり。
そのかゝれたるは出雲國杵筑の出雲宿禰俊信翁にて、かの國の、さきの國造何かしの君の弟にて、今の國造の君の叔父になんあれば、いとも尊き神の裔(はつこ)にて、ふること学びのつたへは、わが鈴屋翁(すずのやのおきな)のをしえ子なれは、年久しく学ひて心ざしふかきひとになんあれば、此のふミにしるされたることゞも、ひがことあるべくもあらず。
いと尊くなむありけるを、本つふミは古記にて、所〃うたがはしき事どもなきにしもあらぬは、冩し巻(うつしまき)は人のうつしとるたびことに、うつしひがむる事もありてなるべし。
萬葉集一巻矢野神山の歌は柿本朝臣人麿呂之歌集に出(いず)と裏書に見えて、人麿呂大人の歌にもあらす。
又その國所も定めがたし。秋寝覚(あきのねざめ)といふ物には、伊豫國(いよのくに)と注したるもおほつかなきことなり。
これが外、後世歌は此萬葉の歌によりて題詠(だいよみ)などによめる歌なれば、その國所にはかゝわらねば、梓弓といふも枕詞にいへるのミにて、すべて證(あかし)とはいひかたきことなり。たしかなる事は續日本後記承和八年八月戌午、奉授阿波國正八位上天石門和氣八倉比咩神従五位下と見え、三代實録元慶三年六月壬午授阿波國正四位下天石門別八倉比咩神正四位上と見えたることは、いとも定かにまぎらはしき事しなければ、いと尊くなんありける。


阿波國矢野の出身で、柳の園の森眞秀という人が、この本を持って来て、序文を書いてよと頼んで来ました。
見せてみ、と言って見れば、名西郡の矢野村に鎮座なさってます、杉尾の神社の由緒を書いてある本じゃないですか。
それは、古くから伝わる社家の記録で、古代の文字を混ぜて書いてある文で、読みにくい所がいくらかあるため、その元の意味は変えないようにして、新たに仮名で書き直してます。
その本を書いたのは、出雲國杵筑の出雲宿禰俊信翁という方で、出雲の國の先代の何とか言う國造(くにのみやつこ)の弟で、今の國造(くにのみやつこ)の叔父さんに当たる人です。
とても尊い神様の子孫であるし、古典を学んだ事については、うちの鈴屋翁(すずのやのおきな:本居宣長)の弟子として、長年学んで知識もある人ですので、この本に書かれた事も、間違いがあるはずもありません。
とてもすばらしい本だと思いますが、元になった本は昔に書かれたものなので、所々疑わしい所が無い訳じゃありません。
と言うのも写本というのは人間が書き写した物なので、書き写すたびに、写し間違える事もあります。
萬葉集一巻にある矢野神山の歌は「柿本朝臣人麿呂之歌集」に書かれてます、と裏書にありますが、柿本人麿呂の歌じゃありません。
また、その書かれた場所も決定する事はできません。
秋寝覚(あきのねざめ)と言う本には、伊豫國(いよのくに)であると注釈がありますが、これも怪しいもんです。
その他の後から詠んだ歌も、萬葉集の歌のタイトルだけを見て詠んだ歌なので、その詠んだ場所には関係ないです。
梓弓と書いてあっても、単に枕詞として書いてあるだけなので、これが証拠とは言えません。
「続日本後記」に「承和八年八月戌午、奉授阿波國正八位上天石門和氣八倉比咩神従五位下」とあること、「三代實録」に「元慶三年六月壬午授阿波國正四位下天石門別八倉比咩神正四位上」と書いてあるのは確かな事なので、その事については、とても尊いことだと思います。

紀伊国 本居太平

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「本居太平」すっごく失礼な奴だと思いません?
人の本の序文に普通こんなこと書きますか。
うちのおやじの弟子で立派な人だとか言っておいて、書いてある事は昔の話なので
「間違って伝えられた事もある」とか「写し間違う事もある」なんて全然正反対の
事を言ってるじゃないですか。
こういうのを二枚舌って言うんです。
ましてや最後には「確かな事は『続日本紀』と『三代實録』に書いてある事だけ」
なんて、この「杉の小山の記」に書いてある事を全面否定してるじゃないですか。
ほんっっっっっとに最低な奴でしょ。
ただ、太平くんの立場に立ってみると「古事記伝」をやってた親父(養子ですが)の
弟子が師匠の本を真っ向から否定するような本を書いてて、さらに「序文を書け」
なんて持ってこられたら、これは困りますよね。怒り狂うかもしれません。
でも著者はなんと出雲の國造の叔父。軽々しく断りもできないでしょうね。
この本を持って来た「森眞秀」という人がどんな人だかよく判りませんが、想像するだに
「本居宣長」のお弟子の書いた本だから息子に序文を書いてもらおう、なんて軽い気持ち
で持って来たんじゃないでしょうか。
想像すると人間関係も見え隠れして、なかなか面白くないですか。

さてさて、書きたかった事も、書けなかった事もまだたくさん残ってますし
宴もたけなわではございますが、時間もよろしいようですので、このあたりで
お開きとさせていただきたく存じ上げます。

おみやげに、少しばかりのお写真をお出しいたしますので、ご覧くださいませ。
お足下にお気をつけて、お帰りくださいませ。


山頂の祠
山頂近くの四国電力31号鉄塔より北東に向かって
大泉神社手前より眉山を望む。つまり名東、加茂名方面。
真正面あたりに高崎八幡。
国府町敷地付近より気延山北面を望む。
左下に御寄神社

2010年5月25日火曜日

天石門別八倉比賣大神御本記 (4)

前回までの記事をご覧になってない方は


まず
天石門別八倉比賣大神御本記 
天石門別八倉比賣大神御本記(2)
天石門別八倉比賣大神御本記(3)をご覧ください。

上の記事で御本記の大まかな所を紹介させてもらいました。
今回は、御本記に関して「杉の小山の記」の注釈を紹介します。
全部はちょっと厳しいので主要な部分を抜粋します。

白文と現代語訳と注釈のセットで書いていきます。
注釈部分は勝手に言い回しとかを変えてます。そうでないと注釈の注釈が
必要になって「いやーん、わけわかんない」って事になりそうだからです。
現代語訳の部分だけレベルが地に落ちてるなんてことは言っちゃダメ。

まず1センテンス行ってみましょう。
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故二神高天原與利此弓矢於持下利賜布示時二神天乃中空爾立志氏此矢乃止所以奉蔵止盟給天発所乃矢則止流地 号矢達之丘(今謂矢陀羅尾)

そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。
その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)

その弓矢を納めた所を、「矢たてのおか」と言う。
誓ひ(うけい)とは、神代巻に「誓約」とも「誓」とも書かれ誓約のことを言う。
宇氣誓能美難箇(ウケヒノミナカ)ともある。
龍田風神祭祝詞に宇氣比賜支(ウケヒタハヒキ)と云々。
万葉集五十六丁に得飼飯而雖宿(ウケヒテイネトモ)、夢爾不所見来(イメニミエコソ)などとあり、神を祈り誓うことなり。
矢達の丘は名西郡矢野村の矢の御倉より五丁ほど南、山の尾なり。
今、矢だら尾と里の人伝えたり。
二柱(ふたはしら)の神、中空より矢を投げかけるとき、その矢の立ちたる所を「矢だてのをか」と言う。
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どうでしょうか。
こんな感じで続けますが、この注釈文、さすが「出雲宿禰俊信(いずものすくねとしざね)」と言った文章でしょ。

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而後二神此地爾留坐天(松熊二前之神是也)御矢倉乃御弓於守利給㕝在年

そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。

松熊二神の神とは櫛盤間戸(くしまど)神•豊盤間戸(とよいわまど)の神にて天石門別の神なり。
櫛盤間戸の神、豊盤間戸の神の弓矢を持ち給う御像もこれによる。
名西郡矢野村の弓の丸より二十間ほど戊亥の方に辰巳向きの社、松林のうちにあり。
今にては松熊大明神という。
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于時大地主神(土宮是也)木股神(御井神是也)参逢天此河乃魚乎漁天奉饗太神禰言鰭乃狭物止謂止毛可食物也止故号其河鮎喰川

ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。
大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。

大土主の神は土の宮、また里の人、野神の社とたたえ祭り、この里にては牛馬、また農事を守護し給う御神なり。
弓の丸より二丁ばかり山のすそに小社あり。
この社へ毎年六月、土用に入る初めの日、里の人家ごとに新麥の団子を重箱に入れて持ち参りて、供え祭る事古よりの例なり。
大土主神は大年神の御子なり。そのことを或る書に素戔烏尊の子なりとあるのは、子を子孫の心にみたてたからである。
大年神は須佐の男命の御子なればなり。
伊勢國度會宇郡大土御祖神あり。土をつかさどり給いて、殊に民の佃る(つくる)田畑等の土の事に功徳(いさおし)ありし神なり。
木股神は、御井神と申して、右の社より八丁ほど南に延命村と言う所の山の裾に小社あり。
木股神は、大国主大神の御子にして、御母の稲葉の八上比賣なり。
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>大土主の神は土の宮、また里の人、野神の社とたたえ祭り、この里にては牛馬、また農事を守護し給う御神なり。弓の丸より二丁ばかり山のすそに小社あり。
思い当たる場所があるので近々見てきます。

>木股神は、御井神と申して、右の社より八丁ほど南に延命村と言う所の山の裾に小社あり。
という事なんですが、まだ確認できてません。
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于時在神名於者伊魔離神止白天此野爾生採五百箇野薦八十玉籖雑々乃幣奉流(其採野薦地者謂五十串野其奉饗地者謂美阿閇野謂髪狭野止)是與利西乃方杉乃小山乃麓爾到利給者石門別神迎来天敬禮啓須

時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。
これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。

伊魔離神は、阿波国の國津神とみえたり。
名西郡矢野村矢取の社より一丁ほど東に、道より少し北に小社あり。
伊魔離の神を祭る小社なり。
この野に生るとは、小竹笹の類いの多く生える所と見えたり。五百箇野薦は、多くの小竹をいう。
五百は数の多きをいほと言うなり。

中略

「いくし田」は矢野村伊魔離の社より二丁ほど東にて、道の北側なり。今は田の名前に残れり。
「髪はさみ」も、田の名に残れり。毎年正月、杉の小山より早淵村までの間、神前の通りより南の山の薪を運送する馬、はじめて通るとき、
馬の髪を切って竹にはさみ大御神に奉りて道のかたわらに立ち置くなり。
それゆえに「髪はさみ」と田の名もあるよし。
杉の小山は、矢野村矢取の社より五丁ほど西のかたへ、のぼり坂道なり。
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ここで伊魔離神が、阿波国の國津神であることを初めて知りました、いくら伊魔離神社の
祭神を調べてもどこにも載ってなかった訳が解りました。
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大神宣久汝等吾勅言乃如爾志氏天吾乎待志哉答曰久然前乃如神宣則此處御矢乎蔵地也止仍天太神甚加褒辞賜而此地爾一宿経而(此故爾謂矢倉乃郷止亦謂屋度利乃社止)猶山坂乎攀登天杉乃小山乎経天気延乃山爾到利給布于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止

大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。
そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえて
この地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。
その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。

広濱の神、これも阿波国の國津神と聞こえたり。矢野村奥谷と言う所にて、気延山の麓にこの神社あり。
「みそたり」同所の奥にあり。「みぞたり」は御衣谷と言う義と見えたり(意味である)。
谷を「たり」というは、大祓の祝詞に左久那太理とあるも谷のことなり。
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広濱の神も阿波国の國津神ということですね。
変な言い方ですが、忘れられてるような場所にお祀りされてます。
天津神と國津神で扱いが違いますね。
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此後大泉乃神爾勅志天天真名井乃水於波玉乃碗爾汲湛天写左志女朝夕乃御食炊水止須
亦小泉神田口乃御田乎奉利弖御饌乃御田止須気延乃山亦乃名者神山大日孁貴坐故爾尊而云神山止

この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。

の小山より乾の方にあたりて、五丁程のぼりて真名井あり。この井深さ六尺余ありて、日数いかほどの旱魃(ひでり)にても、井の水へらず。
神泉炳然し、またこの井より一段下りて田あるに、宝暦年のころ、その田作る者の婦人、田の水にて不浄の物を洗いて、たちまち水かれて出す
(枯れて出なくなった)。
社人来たりて祓い清めて、元の如く水わき出たり。
大泉神、この所の森の影に小社あり。玉盌(たまはち?たまわん?)は水を汲みたるものと見えたり。
武烈巻 ◯(手編に施の右側で「た」と読む)摩暮比(たまもひ)爾 ◯(さんずいに彌)逗佐倍母理(みずさへもり)止とあり。
玉盌に水さえ盛の意なり。豊受宮儀式帳に、御水三毛比四毛比など見えたり。
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これは、言わずと知れた「天の真名井」についてです。
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赭印璽止号弖奉秘崇是也其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐雖然無効験者諸人乃取信如何止其時大神宣久宣哉

赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。
その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。
その時大神はそうであろうとおっしゃられた。

印璽の嶺は、太御神の宮より三十間程裏山道登る所なり。
今に替わらず年年正月元旦、印璽の峯の御石のもとより赭わき出るなり。神のみしわざ妙なりといえり。
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「例の」場所の事です。
毎年、正月に朱が湧き出ていたそうです。
これが慶応三年まで続いていたというんですから。
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此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)

そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)

さかしま谷は、杉の小山の南の麓、宮谷の郷にあり。
しるし田も、同じ所の小泉の下流にて、すなわち田の名も「こいつみ」といふて、不浄の物を肥にせず。
これはすなわち、しるし田の証拠、今に残れり。
またそれより二丁ほど東の方、田の中に「神の田」と言う(ところ)あり。
不浄の物を肥にせず、農人過て不浄肥もの流れいりし所は、その稲みのらずとなり。
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「神の田」も、ちょっと心当たりがあります。

それにしても微に入り細にわたった解説と言えるでしょう。
何丁東だとか、北だとか、三十間登ったとか、こりゃ絶対来て見て回ってますね。
そして御本記を通じて思える事は、葦原中國(あしはらのなかつくに)平定の過程
だなって事です。
高越山から神山に至り、鮎喰川を下って早淵から上陸し(多分上陸したのは一の鳥居
の辺りでしょう)、弓矢を持って威嚇し(矢達の丘辺りに威嚇の矢を打ち込んだかな)
武力で制圧した事を、土地の名を「矢乃野」と名付けて知らしめる。
二カ所へ拠点を設置し(松熊二神)、本拠地を山頂に置く。
国津神(伊魔離神、広濱神)の服従を受け、安全だと確認した後、本拠地をもっと便利
な所に移動した。
とか考えると、すごく筋が通ってるように思えるんですが。
ぜひ、皆様のご意見が聞きたいです。
(おっと、今日は殊勝じゃないですか)
で、どう見ても「古事記」か「旧辞本記」の一部じゃないですか。
地名さえ無ければそう読めるでしょ。
徳島の国府の矢野だって言うからみんな理解しないんでしょ。

最後に一発ボケなくちゃと思ってたんですが、ちょっとマジ入っちゃいましたね。

以上で御本記の解説を一旦終わるつもりだったんですが、
「泣きの一回」
あと1回だけ、おまけを書かせてください。
でも、やっぱし平日は書くもんじゃないですね。疲れちゃいます。

2010年5月23日日曜日

天石門別八倉比賣大神御本記 (3)

前回の記事をご覧になってない方は、まず天石門別八倉比賣大神御本記 
                 天石門別八倉比賣大神御本記(2)


をご覧ください。


なのですが、最初に重大な間違いを修正させていただきます。


此夜八百萬乃神々集爾集天嘘楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂


この部分の「嘘楽」(かぐら)としておりましたが、「杉の小山の記」中の記載では
「口虎」(口編に虎)で「えらき」となっておりました。
該当ページを掲示します。傍線が該当部分です。



言い訳ですが「道は阿波より始まる」及び神社の由緒書きにも「嘘楽」とありましたので
考えもせず記載してしまいました。
最も重要な部分を検証もせず、そのまま記載してしまいお恥ずかしい次第です。
そしてもっと重要な事はこの一文字で意味が逆転してしまうかもしれない事です。
「杉の小山の記」の解説部分を記載いたします。

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「ゑらぎ」とは観喜咲の三字を恵良岐とよみ、咲栄楽を「ゑらぎ」といえり。
続日本記三十巻の詔に、黒紀、白記乃御酒倍恵良岐云云。
雄略(記)に歡喜盈懐ともあり。きたし峯は奥谷の土地。
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「えらぎ」「えらぐ」は「咲楽」とも書かれ、踊って楽しむ旨の言葉です。
古事記にも天照大神が天岩戸にお隠れになったときの段で天宇受売が岩戸
の前で踊ったときに、天照大神に
「益汝命而貴神坐。故、歡喜咲楽」と答えています。
「杉の小山の記」では「エラキ アソヒ」とふりがなが表示されています。
神社の看板にある由緒では「天照大神の葬儀執行の詳細な記録で」とあります。
「道は阿波より始まる」も同様です。

前段に
「永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)」
との記載もあり、役目を終えて高天原にお帰りになるおめでたいことが、いわゆる人間界での
葬祭であるという解釈も当然成り立つでしょう。
が、ちょっと違和感を覚えてしまうのです。
天岩戸での宴の「エラキ」を引き合いに出して葬祭の模様とするのかな?と。



まあ、この件については結論は出ないかもしれませんが、もうちょっと考えてみます。


それで、この一文字については古事記の例もあるようなので「エラキ」とさせていただきます。
前々回の読み下し文は「エラキ」の文字がどうやっても出てこないのでカタカナ表記に修正いたします。
現代語訳の部分は意訳ですが「宴(うたげ)」といたします。
異論はあると思いますが、ご了承ください。
謹んで訂正いたします。


で、今回で「杉の小山の記」の注釈部分を載せていったん終わりにしようと思ってましたが、こんなの
が出てきてしまったので、もう一回くらい書いちゃいます。


なんで「懺悔の部屋(2)」にしなかったのか?
それは歴史の闇の中に沈んでいるのです(←バカですね)

2010年5月22日土曜日

天石門別八倉比賣大神御本記(2)

前回の記事をご覧になってない方は、まず天石門別八倉比賣大神御本記からどうぞ。


前回はとにかく文字ばっかりで、書いてる方も読んでる方も嫌になったと思いますので
詳しい解説を入れる前に「天石門別八倉比賣大神御本記」に出てくる地名で主な所の
画像を持ってる分だけ載せちゃいますので、ここらを知ってる人も知らない人も、ここら
がこんな所だってイメージを持ってもらえたらという事です。


まずは前回も載せたGoogleEarthの画像に少し追加しましたのを。



また、クリックして拡大表示してみてください。
画像では下、方角では東の方から見てみると。


「伊魔離神社」
「杉の小山の記」では國津神となってました。
道理でいくら調べても載ってないはずです。


「箭執神社」
御本記では矢の御倉となってる社です。

「ツカアナ」(矢野古墳)
説明不要でしょう。

「広浜神社」
「矢野古墳」のすぐそばです。おもわず見落としてしまうような
場所です。


「松熊神社」
御本記では弓の御倉となってます。

「ゆの丸」
「サカサ谷」の方面から見上げてます。
正面からちょっと左寄りのあたりです。

「本殿」(印璽の丘)
なぜか本殿の写真が見当たりません。
わざわざ撮っておく気がなかったんでしょうね。


「サカサ谷」「シルシ田」
この辺り一帯が「サカサ谷」らしいです。いつも散歩してるんだけどな。
で、一番奥まった辺りからここらまでが「シルシ田」のようです。

「矢達の丘」
うーん、竹林で覆われてます。ここのタケノコをいただいた事があるんですが。


「大泉神社」「御饌乃御田(みけのみた)」
 
五角形の井戸です。いわゆる「天の真名井」ですね。
正面の石垣の上が「御饌乃御田(みけのみた)」です。
これもあんまりいい写真がなかったんです。


「かくしの谷」「キタシ峯」
正面の谷が「かくしの谷」とおもわれます。
で、その右側が嘘楽を行った「キタシ峯」だと思うんですが。

最後にこの画像の下の方にある「一の鳥居」を



「一の鳥居」
上の画像でも解ると思いますが、本殿の東方向真っ正面です。
この写真で言えば扁額の真下に本殿が見えます。

いやあ、いかに地元の写真は真剣に撮ってないってことがありありと
解っちゃいますね。
いつでも撮れると思ってたらこの始末です。





2010年5月21日金曜日

天石門別八倉比賣大神御本記

あれ、ちょっとぐーたらしてたら誰もいなくなっちゃったかな。
まあ、もともと閑散としているブログなんですが。気をとりなおして。
天石門別八倉比賣神社に行ってきました。と言えば、いまさらなんだよー金返せ(もらってないよー)といわれそうですね。
まずは八倉比賣神社の略記をちょっと

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御祭神 大日孁女命(別名天照大神)

御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ
清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を
次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)
三月三日正一位となる。

当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。



中略

当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。

中略

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。

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で、案内板と同じような事を紹介しても面白くないので「天石門別八倉比賣大神御本記」に
ついてちょっとばかし書いてみようかなと思います。
でも、御本記の事ってあんまり出てないんですよね。
「高天原は阿波だった 山中康男 著」にも抜粋の感じで少しだけ出てましたけど。
全文を入力しようと思って、まずは「道は阿波より始まる」の付録の御本記から見てました。で、現代語訳をしようとしてあまりにも道が険しいので、さらに参考書を探しておりましたら2つ見つけました。
一つは著作権とかで引っかかるといけないので書名は出しませんが、もう一つはこれ。

「杉の小山の記」でございます。
天保二年(1831年)に記された多分唯一無二の「天石門別八倉比賣大神御本記」解説本です。珍本中の珍本と言えるでしょう。
「道は阿波より始まる」も当本を参考にしたのではないかと思われるふしがあります。
著者は出雲宿禰俊信(いずものすくねとしざね)、第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。
「千家俊信」で検索をかけるとWikiで引っかかってきます。
本居宣長の高弟だそうです。つまりは国学者。
多分、
>出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され
とある千家某とはこの人の事なんでしょう。
そしてページをめくれば


おお、「阿波國文庫(あわのくにぶんこ)」の蔵書印が。
「阿波國文庫」についてはあまりにも面白いので改めて書きます。
でも、この本、徳島県立図書館の「当館所蔵阿波国文庫資料一覧」にも載ってないのは
なぜでしょうか。
それはさておき、「道は阿波より始まる」と「杉の小山の記」ともう一つを見比べて
入力していきました。
ちょっと残念だったのが「道は阿波より始まる」には誤植?がいくらかあるようです。
「于時(ときに)」と書くべき所が「干時(ひでりのとき?)」となっていたり
「赭(あかつち)」が「猪(いのしし)」であったりし、また文脈もつながらないところ
が見受けられたので、この本を基とするのはあきらめ後の二冊をベースにしました。
ただ、丸写しではないです。これもまた文脈として疑問が出てきた所を最小限のつもりで
変更してあります。
つまり、後に示す御本記はどこにも載っていない「ぐーたら」解釈の御本記です。
物好きな人がコピーしていくのは構いませんが、そこんとこだけはご注意ください。
また(そんな人はいないと思うけど)どっかで使うときは必ず連絡してください。
ただ、自分なりには充分考証したつもりです。(自分なりにね♡)

まずは書き下ろしです。
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天石門別八倉比賣大神御本記
古天地初發之時 於高天原成神名号天之御中主神止
次國雅如浮脂多陀用弊琉之時状如抽葦牙物化為神号國常立尊止
而後在神伊邪那岐神 次妹伊邪那美神 此二神國土海原及山川諸乃霊神産生之後 伊邪那岐神洗左御目時所成神名号日孁大神是則八倉乃日孁大神也
最初高天原爾志氏武備志賜比志後 天石門別乃神爾勅天自今以後汝等吾爾代天武備乎奉負
亦曰此羽々矢此御弓於波葦原中國仁持降天可善地爾奉蔵永爾莫用矣
吾亦天降天其地可佳止宣氏天羽々矢乃天乃麻迦胡弓止於賜只
故二神高天原與利此弓矢於持下利賜布示時二神天乃中空爾立志氏此矢乃止所以奉蔵止盟給天発所乃矢則止流地 号矢達之丘(今謂矢陀羅尾)故二神此地爾矢於覚来利天周久覚給志加波其地於号矢乃野 其矢求出低永奉蔵地乎波号矢乃御倉
其弓於奉蔵之地乎波弓乃御倉止謂只
而後二神此地爾留坐天(松熊二前之神是也)御矢倉乃御弓於守利給㕝在年
而後比賣大神天八重雲於伊津乃路別爾千別天天降給只最初椙乃小川乃清只流乎照臨賜天此川乃水深志止謂登毛太早止宣喜故其所乎謂早渕乃邑止
于時大地主神(土宮是也)木股神(御井神是也)参逢天此河乃魚乎漁天奉饗太神禰言鰭乃狭物止謂止毛可食物也止故号其河鮎喰川
于時大地主及木股神爾勅言久吾可住在処矣汝等宣奉導大地主答曰久是與利西乃方朝日乃直刺山夕日乃日照留気延嶺阿利請其地爾可行幸止啓天奉引導
于時在神名於者伊魔離神止白天此野爾生採五百箇野薦八十玉籖雑々乃幣奉流(其採野薦地者謂五十串野其奉饗地者謂美阿閇野謂髪狭野止)是與利西乃方杉乃小山乃麓爾到利給者石門別神迎来天敬禮啓須
大神宣久汝等吾勅言乃如爾志氏天吾乎待志哉答曰久然前乃如神宣則此處御矢乎蔵地也止仍天太神甚加褒辞賜而此地爾一宿経而(此故爾謂矢倉乃郷止亦謂屋度利乃社止)猶山坂乎攀登天杉乃小山乎経天気延乃山爾到利給布于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止
直爾気延乃嶺乃下津磐根爾宮柱廣敷立高天乃原爾峻峙榑風天天上乃如儀仁志氏天鎮座須(天石門押坐故天石門別云八倉郷爾坐姫御神故ニ八倉比売ト云)此夜八百萬乃神々集爾集天エラキ楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
其嘘楽之手草及雑々乃物乎所蔵者加久志乃谷止云
即大神詠曰
雲乃居留八倉乃郷能喜延山
下津岩根爾宮井曽女都毛
此後大泉乃神爾勅志天天真名井乃水於波玉乃碗爾汲湛天写左志女朝夕乃御食炊水止須
亦小泉神田口乃御田乎奉利弖御饌乃御田止須気延乃山亦乃名者神山大日孁貴坐故爾尊而云神山止
而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月太神毛原美曽持爾託曰久吾宮地遙爾高峻志此故爾神主祝部巫乃百乃蒼生爾到萬天参詣拝趨爾倦労奈牟
杉乃小山者不高不低不遠不近直善地也彼嶺爾欲遷座止吾前爾従天持降流所乃瑞乃赤珠乃印璽於波杉乃小山乃嶺爾深久埋弖天乃赭乎以覆蔵是其赭者諸邪鬼妖怪及諸病乎厭爾奇仁妙奈流験止教喩賜只
赭印璽止号弖奉秘崇是也其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐雖然無効験者諸人乃取信如何止其時大神宣久宣哉
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
神主祝及百蒼生其神宣炳チコナル乎恐美畏美則杉乃小山爾宮柱太知立高天原爾千木高知天乃御蔭日乃御蔭止永仁隠坐弖國家乃大基乎守護御坐云云迂坐乃月者長月日者中三日此故爾此日乎以御霊現乃日止奉啓矣
奉授神位
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あー、目がくらくらする。
これじゃ、ただ書いただけなんで、これまた「ぐーたら」流に現代語訳したのを
記しておきます。
これも念押ししておきますが、あくまで「ぐーたら」の訳です。
他のどんな書籍にもありませんのでご注意を。

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天石門別八倉比賣大神御本記
古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申します。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。
その後にも、神が生まれられた。
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。
この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。
これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。
また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)
われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。
そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。
その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)
そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。
その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。
その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。
最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。
その所を早渕の村という。
ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。
大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。
大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。
時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。
これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。
大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。
そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえて
この地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。
その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。
(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。
その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。
その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。
大神が(歌を)詠むには
雲の居る八倉の郷の喜延山
下津岩根に宮井そめとも
この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。
また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
しかして後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。
このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。
杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。
かの嶺に遷(うつ)りましょう。大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。
その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。
その時大神はそうであろうとおっしゃられた。
そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って
杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。
奉授神位
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さてさて、いかがでしょうか。
訳の巧拙はあっちへおいといて、「御本記」やたらと面白いでしょう!
さらに面白いのが「杉の小山の記」の解説。
例えば
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
の部分。「ぐーたら」訳では、


そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)

この部分の解説として
さかしま谷は杉の小山の南の麓、宮谷の郷にあり。しるし田も同じ所の小泉の下流にて
すなわち田の名も「こいつみ」といふて、不浄の物を肥にせず。
これはすなわち、しるし田の証、今に残れり。

うわあ、宮谷ってこのあたりじゃないですか。
それで「杉の小山の記」には絵図も載ってます。これがすごい!!

ぜひクリックして拡大図を見てください。
そして次のGoogleEarthの写真を見てください。

これもぜひ拡大して上の絵図と見比べてください。
いやほんとに航空写真と見まごうばかりの絵図じゃないですか。字が見にくいかも
しれませんがGoogleEarthに主立った地名を入れてみました。
これは凄すぎるでしょう。天保の時代にどうやったらこんな鳥瞰図が書けるんでしょうか。
そして「御本記」の内容。
一番気になったのが
「二千百五年を経て小治田の御世」の部分、原文では
「而後経二千百五年而到小治田御宇」とあり、小治田の御世に遷座されたってことは
当初造営されたのはそれより2105年前?おおっ?
また、「杉の小山の記」の解説部分は本が一冊書けるほどの内容です。
実際には一冊書けないので面白そうな所だけ紹介したいなと思ったりしております。

今回の最後に、
「入力してて死ぬかと思ったぞー」
との「ぐーたら」氏の心の叫びを記しておきます。

2010年5月15日土曜日

吾唯(不)足知

タイトルの如く竜安寺の蹲(つくばい)に刻まれている四文字を見つめながら
考えておりました。
古墳や神社、旧跡を廻ってみたが、何かが足りない。
「吾唯足知」ではなく「不足(たらざる)」を知るべきであろう。
仕事中もその事が頭から離れない。
巡り来た旧跡に足りないもの。
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「女の子」ではないか!それも「可愛い」。
そうなんだよな、神社とか行って女の子を見かけた事が無いんだよな。
小学生以下の子供が遊んでるのは見るけどさ。
そこで天啓の如く閃いたことが。
「森ガールを古墳に呼ぼう!!!」(神社でもよし!!)

っっっとにバカですねぇ
すいません、ここから以降、読まなくてもかまいませんので。





さて、「森ガール」とは何か?

森ガールという名前は、ソーシャルネットワーキングサービス・mixiの“森ガールコミュニティ”管理人が友人に「森にいそうな格好だね」と言われたことに由来する
Wikipediaより
↑Wikiから採ってくる所がほんとにバカ
こんなのだそうです。(ここはどんなブログだ)



なぜこんな事を思いついたか?(聞きたくないでしょうね)

「森ガール」の定義としてよくあげられてるのが、下記項目です。
(もうやめたら、という心の声が聞こえる、それも大声で)

   ゆるい感じのワンピースがすき
   普段ワンピースやスカートばっかり
   シンプルよりどこかくせのある服がすき
   (でも派手派手してるのはそんなにすきじゃない)
   ナチュラル系にみえるけど、すこしクセのあるファッション
   素材にはこだわりたい
   民族系の服装もすき
   Aラインがでる服装をする
   ちいさな子が着るようなワンピースもすき
   スモックのようなワンピースやブラウスがすき
   全身甘々ファッションはすきじゃない
   ボルドー・深緑・紺・茶色など、深い色合いがすき
   暖色系が似合う
   短いネイルのほうが落ち着く
   ニットやファーで、もこもこした帽子がすき
   イヤーマフがすき
   ポンチョやボレロがすき
   革製のバックをもちたい
   ポシェットとかつい使ってしまう
   銀より金の小物がすき
   古いものに魅力を感じる
   懐中時計がすき
   ルーペとか大きなモチーフのネックレスがすき
   動物モチーフすき
   お菓子モチーフすき
   チェックやドットがすき
   レトロな花柄すき
   レースがすき
   タイツ・レギンスがすき
   靴は基本ぺたんこ
   ラウンドトゥがすき
   スニーカーを履くならスリッポンでゆるくかわいく
   普通のボタンより、くるみボタンがすき
   マフラーもストールもぐるぐるまきにしたい
   冬はタートルネックが基本
   重ね着すき
   パフスリーブにきゅんとする
   童話がすき
   色白
   ゆるいパーマをかけている
   ボブ×パッツン
   パッツン×ロングのゆるゆるパーマ
   ガーリー
   felissimoがすき
   felissimoはとくにシロップ、スロウがすき
   Q-pot.のお菓子の雰囲気がすき
   カフェでまったりするのがすき
   カメラ片手に散歩をするのがすき
   雑貨屋さん巡りをついついしてしまう
   すきなものはついついコレクションしちゃう、コレクター
   本屋さんでかわいい本を見つけると嬉しい
   家具屋さんにいくとわくわくしてしまう
   手作りがすき
   季節は秋と冬がすき
   いつか北欧にいきたい
   チークはまあるくいれたい
   香水は付けるならほんの少し漂う花の香りがいい
   やわらかい雰囲気がでてるおんなの子(に憧れる)
   透明感のあるおんなの子(に憧れる)
   つねにゆるい雰囲気をだしていると言われた事がある
   「ハチクロ」のはぐは森ガールだとおもう
   「ただ、君を愛してる」の里中静流も森ガール
   友達に『森にいそうだね』と言われた事がある

赤色を付けた所が「ぐーたら」との共通点です。
(どっかの検索で引っかかって、ブログが炎上したらどうしよう)
どうです、これだけの共通点があるんですよ。ほとんど同じじゃないですか。
(ここまで書いて、ほんとに後悔してます)
例えば
  Aラインがでる服装をする(体型がAライン)
  季節は秋と冬がすき(夏は蜂や蚊、蛇が出ますからね)
  冬はタートルネックが基本(寒いですからね)
  重ね着すき(寒いですからね)
  童話がすき(古伝承がすき)
  ポンチョやボレロがすき(雨具持参は基本ですね)
  友達に『森にいそうだね』と言われた事がある(実際に森にいる)

このような共通点より、「森ガール」が古墳、神社近辺に存在すべき
十分な根拠になると思われます。
さあ、みんなで「森ガール」を古墳に呼ぼう!!!
「尼寺古墳群」なんていいぞ!森がたっぷりだぞ。
石井町の「西王子神社」もいいぞ!「轟神社」まで廻れば雰囲気は最高!!!
(情けなくなってきた)
問題はどこにいるのかってことです。
2009年の夏ぐらいに流行ったみたいなんで、もう死滅してるかもしれませんね。
(こんな終わり方でいいのか!!)
すいません躁から鬱への変わり目なんです。

2010年5月12日水曜日

懺悔の部屋


ああ神様、わたくしは大いなるカンチガイをしておりました。
前回のブログの記事で
「此神中北五社神ト云神体五ツアリ」を探してたんですが、やはりよく判らなかったんです。」
などと書きなぐっておりましたが、その前文の
「神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云」
を完全に見落としておりました。
そうです「堂床」にある「五社神」とは瑜伽神社とも呼ばれる「五所(御所)神社」しかありません
ではないですか。


石井町のK様のご指摘ではっと気が付きました。
ああ、なんと罪深い事でしょう。
あの五所(御所)神社を完全に忘れているとは。
なおかつ、のらねこ様が
にて詳細に書いておられているではありませんか。
そして、最悪なことは、

天日鷲命の御陵は麻植塚にあった?


の時にも
地元の方、もし見てましたら向麻山の北側に五社神
と言う神体五ツがあるか教えていただけませんか。」
などと世迷い言を書いておるではありませんか。


ああ神様、この罪深い私はどうすれば救われるのでしょうか。
ん、神様が違ってる?
あああああ、懺悔ではなく禊(みそぎ)でありました。

2010年5月9日日曜日

鴨島町の向麻山へ行ってきました

待てど暮らせど、筑波大学から返事が来ないので鴨島町の向麻山へ行ってきました。
まあ、連休明けなんで日がえらく経ってるような気がしてますが営業日数では数日。
文句をつけるほどでもないですよね。


で、鴨島町の向麻山へ行ってきましたと、お約束の作文タイトルです。
場所は、ここです。
このブログで初めてマップを見たって言われますかね。
そうです不親切なブログなんです(開き直り)
普通なら南側に立派な車両の進入道路があるんですが、そこはひねくれものの私、北側から侵入いたします。
無論、自動車では入れません。
イノシシ除けの扉から入ると、「すごい!!」柳絮(りゅうじょ)が雪のように降ってます。
これは初めて見ました。感動的です。

ヤナギ
果実はさく果で、種子は小さく柳絮(りゅうじょ)と呼ばれ、綿毛を持っており風に乗って散布される。
Wikipediaより

写真を撮ったけど見えないでしょうね。


そして階段をよいこらしょと登るうちに、脇道に「はっけーん!」石室です。
んふふ、こんなのを見逃すはず無いでしょう。


金網の隙間から写真を撮ります。
コウモリ君が驚いてました。はい、ごめんなさい。

頂上まで登ると「山頂広場」です。



竜眼神社・御嶽神社が祀られてます。


無論、忌部と深い関わりのある神社です。


でも公園整備の時にもうちょっとどうにかならなかったんでしょうかね。
事情はわかりますが。
さて、神社を参拝して同じ道を降りてくると、来た時には気付かなかった
こんなのが。


右の写真、刻まれてる文字がうまく読めなかったので、帰ってからゆっくり読もうと
思ってたら、やっぱり読めない。〜の命とか一部は見えるんですが。
いやあ、失敗。やはりその場で解読しておけばよかったと反省。
ただ、蜂がいっぱいいたんです。で、焦って帰ってきてしまいました。
帰る途中でも


こんな末社がこんなところに。
田んぼの真ん中なんで近づく事ができませんでした。
ところで、なぜ唐突に向麻山へ行ってきたかと言いますと。







天日鷲命の御陵は麻植塚にあった?


で、書いてみて一度は来てみたんですが、その時には何も見つけられなくて
改めてのトライです。
さて、いきますぜ「阿波国(続)風土記」原本です。























これは読みやすいでしょう。
クリックして拡大してみてください。








「麻植郡麻植塚村舊跡傳」
コノ郡ノ名ハ麻植ノ神社ヨリ起コレリ麻植ノ神社
トハ延喜式ニ曰ク忌部ノ神社大社或ハ麻植神
ト号スト云々則此神ナリ
麻植ト号スルノ地ハ内原中村森任飯尾敷地牛島上下島鴨島


この郡の名前は麻植の神社より起こった。
麻植の神社とは延喜式に言われる忌部の神社大神あるいは麻植神
というその神である。
麻植という場所は内原、中村、森任、飯尾、敷地、牛島、上下島、鴨島


西麻植ノ十ヶ村ヲ云ナリ此レ古、麻植ノ本地也
故ニ神代ノ日鷲ノ命麻ヲ植エ荒妙ノ衣
ヲ織シメ給ワ古跡ニテ川ヲ麻漬川ト云イ
其山ヲ神(カウ)ノ山ト云 麻晒石 麻搗石ナント今ニ存セリ
是ヨリ西ノ方ノ縣名川島射立忌部
等麻植ニ属シテ一郡ト成ル
東鑑第六曰文治二年閏七月十二日前廷尉
平康頼法師照西恩澤ヲ浴シテ阿波ノ国ノ
麻植ノ保トナルト云々

西麻植の十か村を言う。これは昔の麻植の元の場所である。
そのため神代の日鷲の命は麻を植え、あらたえの衣を織らせた
古跡の川を麻漬川といい、その山を「神ノ山」(こうのやま)という
麻晒石、麻搗石は現在でも存在している。
ここから西の方の県(縣)名の川島、射立、忌部などは麻植に属して
一つの郡となっている。
東鑑第六に記載されているように文治二年うるう年七月十二日前の廷尉(役職名)
平康頼法師、照西の恩恵によって阿波の国の麻植の役となる







右康頼法師ノ古跡ハ森任村ニアリ森任村ハ則
麻植ノ中村也此所ニ康頼ノ勧請セシ俊寛僧
都ノ塚アリ俊寛僧都ハ薩州鬼界島ニテ死ス
トモ云 国而康頼法師其菩提ヲ吊ラヒ此處ニ
塚オ築ヒテ祭レリト云傳フ

康頼法師の古跡は森任村にある森任村は麻植の中村のことである。
ここに康頼の勧請した俊寛僧都の塚がある
俊寛僧都は薩州鬼界島で死んだといわれる。
国而康頼法師はこの菩提を弔うため、ここに塚を築いて祭ったと伝えられる。


麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
其ノ處ハ麻植郡麻植塚村ト云
麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云

麻植塚村と言われるのは天日鷲命の御陵(お墓)があるための名である。
その所は麻植郡麻植塚村と言う。麻植塚に御陵があることをによって(そういわれる事を)知りなさい。
古老がいうには大昔、御塚は「神ノ山」のふもとにあったが川の水が(氾濫した)ために
なくなってしまったため今の所に移したという。







麻植塚
コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
同地トアリ
神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

この御陵の後は一面の大藪であったが相当の昔、開墾して人が住める土地となった。
天正十九年、御検地の御帳にも麻植塚は前と同じ地とある。
「神ノ山」の北面が麻植の古宮の地(である)、字の名を堂床という。
この神を中北五社神と言う。神体は五つあり、この宮の後に「ヲカダマの木」といって
萬葉集に歌われた木がある。享和年間新宮を移すという。

さあ、どうだ。
現代語訳の変な所は無視しろよ。(勝手だね)
俊寛僧都まででてくるぞ。
「神ノ山」が「向麻山」であることは明白でしょう。
くりかえしますぜ、

「天日鷲の命の御陵が麻植塚にある」

だから今日は
「此神中北五社神ト云神体五ツアリ」を探してたんですが、やはりよく判らなかったんです。
また、
「ヲカダマノ木ト云テ萬葉集ニ見エタル木アリ」
については「おがたま(招霊)の木」のことですね。
これも5月から6月に花が咲くらしいので探してたんですが、見つかりませんでした。
もう一度行ってみなくてはいけませんね。
ただ「おがたま(招霊)の木」については万葉集を全部繰ってみたんですが、それらしい
木が見つかりません。疑問です。
どなたか「おがたま」「おかだま」の木について万葉集のどこに載ってるのか教えてください。

それにしても「向麻山」は面白い。これだけじゃ済ませませんよ。


ハメット、チャンドラーはお好きですか。

こういうのを「フェイク・エンディング」っていうんだぜ。

夜の静寂の中でまた遭おう。