2012年8月26日日曜日

8月18日「石井古事記研究会」より(3)

続けて書こうと思ってたんですが、無茶苦茶忙しくて
大分間が空いてしまいました。
8月18日「石井古事記研究会」より(2)の続きです。
前回の(2)も焦って書いたので書き漏れが大分ありました。
脈絡が無くなるので(そんなのあったか?)あまり出しませんが
大体は当日配らせていただいたレジュメに書いてある通りですので
気にしないで下さい。

敷島神社(河邊八幡神社)については

志賀剛によると、天水沼間比古神は、湧水を湛える神。
天水塞比賣神は、雨を堰きとめる神。
ようするに、祈雨・止雨の神だという。
『式内社調査報告』では、水間別氏によって開拓された敷地附近の祖神。
当社の裏山に、西宮古墳と呼ばれる古墳がある。
七世紀初期の忌部山型古墳(横穴式石室)で、当地に忌部氏が居住していたことの証とされている。
との記述を追加しておきます。
また、一般的に天太玉命の出自は奈良県橿原市忌部町に鎮座する「天太玉命神社」
と言われておりますが、奈良県のこの近辺で忌部様式の古墳は発見されていない事を
付け加えておきます。

あとは、話す順番は違いましたけど、おまけのお話。
古事記関連の話も少しはしなくちゃ、と思い立ち
序文の此の部分

亦於姓日下謂玖沙訶。於名帶字謂多羅斯
また姓におきて日下を「くさか」と謂ひ、名におきて帯を「たらし」と謂ふ

より大坂南堀江の「木津屋」さんの調査より紹介いたしました。
この「木津屋」さん姓を「日下」といい。

当家伝承の「日下姓」は、聖徳太子様からの賜姓(しせい)でございます。今からおよそ1400年位前に、小野妹子の子である小野義持は、聖徳太子様より賞として「日下の姓」を称えるよう命じられました。
 聖徳太子様に対する功績の賞として頂いた姓でございますので、その時代既に、格式の高い名であったと考えられます。

でもって、この「木津屋」さんの調査によると
日下の由来は、いくつか有ると思われます。

阿波国
 阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られます。また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がございます。現在西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県か香川県等、四国地方を起源にしているのではないでしょうか。

越前国
 越前国(えちぜんのくに)の丹波氏族日下部氏の流れから、日下家が出ております。

宮城県白石市
 日本一日下姓の多いのが宮城県で、特に白石市に集中しておりますが、この地の日下姓の起源は、調査中でございます。

東大阪市日下
 古代より古い歴史のある大阪府東大阪市日下の地でございますが、この日下の地からも、日下姓が出ております。聖徳太子様賜姓の日下家(小野氏)が、この日下の地に領地を所有しておりましたので、このお家の末裔である可能性もございます。また比較的近代になってから、日下の地に住まうお家が、地名から付けた事を起源にする可能性もございます。

だそうでして。

各地方の日下姓については
【徳島市】
 徳島県としては、そこそこなのですが、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い町でございます。

との調査結果であります。
太安万侶が一文を割いて記した「日下」姓が徳島市は全国一多いんだそうです。
また、ご存知の通り「久米」姓については石井町が全国で一番多い町であります。
これだけでどうという事はありませんが、ちょっと「あれっ」と思いませんか。

ごめんなさい、ちょっと少ない目ですが今日も帰って来たのが23時30分と
体力の限界に近いので、あと残りは少しですが、最終回に廻します。


2012年8月20日月曜日

8月18日「石井古事記研究会」より(2)

「8月18日「石井古事記研究会」より(1)」からの続きです。
もう一度史蹟地図を見ていただきましょう。
左下の一部を枠で囲んであります。所に「河辺寺跡」と記されております。

ここが「河辺寺跡」ですね。



河辺寺跡は、四国山地の山沿いに位置する古代寺院である。
 江戸時代の記録にみられたが、場所などははっきりとしていなかった。昭和29(1954)年に田の耕作中に、大形の石や瓦が出土したことから、記録にある河辺寺と考えられるようになった。
 2005(平成17)年の徳島県埋蔵文化財センターの調査では、これまで知られていた礎石17カ所の他に,礎石を取り除いた穴10カ所と東西の基壇を確認した。この調査結果から、この礎石建物が4間×5間の規模の金堂と分かった。
 建物の周囲からは、瓦が大量に出土した。出土した瓦の文様の特徴などから、寺が奈良時代(8世紀)に建てられたことも分かった。
 徳島県の古代寺院は遺構の配置などはっきり分かっていないものが多く、建物の規模などが分かるものとして貴重な調査例である。
 遺跡を見学するには、旧伊予街道(県道西浦・下西線)から、飯尾派出所の交差点を南へ500m。
徳島県立埋蔵文化財総合センター資料より

そしてちょっと離れますが、同じく鴨島町敷地に「敷島神社」があります。




御祭神 事代主命
合祀 式内社
阿波國麻殖郡 天水沼間比古神(社)天水塞比賣神社二座
徳島県吉野川市鴨島町にある。
西麻植駅の南2Kmほどの敷地に鎮座。

社号標には、以下の社名が刻まれていた。
「河邊 八幡神社 梅宮神社 西宮神社 山神社 敷島神社
雨足 天水沼比古神社 天水塞比賣神社
神木 諾冊神社 山王神社」



当社の創祀年代は不明。

通称は、西之宮。
江戸時代までは、西宮八幡宮と称しており、
明治になって、周辺の小社を合祀し、敷島神社と改称したもの。
社号標にある「河邊 八幡神社」が当社の元の形。

合祀されている「雨足 天水沼比古神社 天水塞比賣神社」が、
式内・天水沼間比古神社 天水塞比賣神社の論社。

合祀以前は、雨足神社(無格社)と称しており、当社の東400mほどの場所、当社参道の北側の小祠に祀られていたもの。
雨足神社は、天足社とも書かれ、明治四十二年九月に、当社に合祀された。

この合祀されている「河邊八幡神社」石碑の残る場所より、もともとは「河辺寺」の傍にあったと考えられます。

そして大正六年の「麻植郡郷土史」には「忌部の伝説」としてこう書かれてあります。

この地忌部に関する伝説は頗る(すこぶる)多い、史実改名ならされども参考として茲(ここ)に掲ぐ。
 壇の原と称せる地あり、東西三十間南北四十間計り(ばかり)平地あり。附近に古松あり忌部松と称す、字西の宮山上 天日鷲命御陵ありと伝う先年村人開拓せしに、原史時代営造せし古墳にして鉄器、土器等を発掘せり、式社略考に曰く西麻植村に小字廣堂(現在広畑)と称せる地あり、往昔は堂と云い西隣(西隣村のこと)に神後(じんご)あり、東(西の間違いか)に接して、絵馬堂と云う地あり、上古広堂附近に忌部神社ありけるが、洪水に流失し、其後兵乱打続きし故再建に至らすと云へり。
 又、中内神社は其当時流出せし忌部神社を仮に祭祀せしなり、とも云う。其他地名に馬場、的場、御供田(ごくでん)、巫塚(みこづか)、土器メン、麻植市等あり、又四基の立石と称せるあり、一基は神後、二軒茶屋、一基は山田村、一基は敷地村、一基は西麻植村田渕にあり、而して安房忌部の祖太玉命を祭祀せる官幣大社安房神社は安房国(千葉県)安房郡神戸村にあり、此地字敷地村小字に神戸あれり、忌部の大社ありしならんとの口碑を伝う。

敷地村「神戸」にあったのは「河邊八幡神社」。
「河邊八幡神社」は忌部の大社であったと思われるのです。
そして「麻植郡郷土史」に書かれているように

安房忌部の祖太玉命を祭祀せる官幣大社安房神社は安房国(千葉県)安房郡神戸村にあり


安房の国一の宮、安房神社略記を出してみましょう
安房神社公式ホームページからの転記です。

御本社御祭神(上の宮)
日本産業総祖神・天太玉命、相殿后神・天比理刀咩命
御摂社御祭神(下の宮)
房総開拓の祖神・天富命(天太玉命御孫神)、日本武道祖神・天忍日命(天太玉命御弟神)

由緒・神徳
房総半島の南端神戸郷に静まり座す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀咩命を配祀として奉斎し、摂社下の宮に天富命をまつる。
延喜の制には名神大社に列せられ、安房全域を神都として有した全国屈指の名社である。本社の主祭神天太玉命は中臣氏の祖神天児屋根命と相並んで天照皇大神の側近に重臣として奉仕し、政治・祭祀・農漁業・建築・金属工業等、諸産業の祖神を統率された大力無双の神に坐す。
天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、大神の出御に大功を顕わされた。
房総開拓の神として下の宮に祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせられ神武天皇の重臣に坐す。
天富命は、勅命を体して四国阿波国忌部族の一部を割いて海路東方に沃土を求められ、最初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって茲に本拠地を定めて祖神天太玉命の社を建てた後、次第に上総・下総に進み房総半島に麻穀を播殖しその産業地域をひろめられたのである。
安房神社の御祭神は、日本産業の総祖神として崇められ更に現在では交通安全、厄除開運家内安全、商売繁昌等、関東地方随一の神社として信仰が厚い。

安房神社は安房国(千葉県)安房郡神戸村にあり
忌部の大社であると口伝により伝えられた「河邊八幡神社」は鴨島町敷地村小字神戸にあるのです。

また、この「敷地村」という村名

敷地は通常、川底だった所が地面となった地をいう。国府町の敷地がその例であるが、鴨島町の敷地村は川は多いが村全体が川底であったはずも無い。
これは敷地は実は「式地」と書き、忌部の祭祀を司っていた土地である事を示す。
のです。

また「神戸」の字名については兵庫県神戸市の例を見れば


(参考)神戸地名の由来
歴史をさかのぼってみると、神戸が「神の戸」と表されるようになったのは、生田神社の神戸(かんべ)に由来しているとされています。神戸(かんべ)というのは、古代から神社には封戸(ふこ)と呼ばれる神の戸なるものがあり、生田神社には四十四戸の封戸が与えられていました。この封戸とは、税を納めて神社を支える民家のことをいいます。

生田神社、安房神社と大社クラスの神社を支えた封戸(ふこ)のある地の事を言うのです。
この伝でいえば「河邊八幡神社」が大社であった事を想定しても、何もおかしくないと言えるのではないでしょうか。

続く♡




2012年8月19日日曜日

8月18日「石井古事記研究会」より(1)

えーと、先日に8月18日(土)石井古事記研究会様より、「なんぞ話をせい!」という
お達しをいただきまして恥ずかしながら参じてまいりました。

石井の方々の前で地元の話をすると言う、ほとんど自殺行為のような場ではありませんか。
そんな所へのこのこ出て行くなんて我ながら感心してしまいます(笑)

とはいいつつ、最初は鴨島町「向麻山」の話と言う事で、その線でまとめてたので、修正
が効かずに、そのままお話させていただき、石井の話が少なく、心苦しい所でした。

で、今回はその内容をブログ用に編集しまして、上梓させていただきます。
「なんだ、この程度かい」と思われるでしょうが「その通りです」(笑)
ま、そんなもんですので。

鴨島町の「向麻山(こうのやま)」と言いますと、以前にも書いておりますが
「天日鷲命」の御陵があるという伝承がございます。
麻植、鴨島といえば忌部の里で有名でございますが

天日鷲命の御陵は麻植塚にあった?

でも

天日鷲命(あめのひわしのみこと)といえば言うまでもなく阿波忌部の
祖神であり、徳島県麻植郡山川町高越山に高越神社としてまつられています。

岩戸の神事を司った神である天太玉命(あまのふとだまのみこと)が
忌部の祖神であり、阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の
義理の兄弟であるということです。
徳島県鳴門市の大麻比古神社は、天日鷲命の子孫が祀られ、忌部
神社にも天日鷲命が祀られています。

で、最近見つけた資料によると、この「天日鷲命」の御陵が
徳島県吉野川市鴨島町の麻植塚にあるというではありませんか。
確かに「麻植塚」とは「麻」を「植える」「塚」の意味でしょうし

「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして
 十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、
 大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、
 麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

と、書き出しております。
まずはパクって来た鴨島町の史蹟地図を出しておきます。


右の囲いの中が「向麻山」で
忌部が麻を加工していた「麻搗石」「麻晒石」の名前が見えますが、麻名用水工事の際に取り除かれたそうです。山頂には、竜眼神社・御嶽神社が祀られております。
 この木の向こうを廻った辺りに「麻搗石」「麻晒石」があったようですが
今回も行ってみましたが、跡形も見つけられませんでした。
 山頂は公園になっております。
クリスマスシーズンはイルミネーションが美しゅうございます。
「竜眼神社」ですね。

そして、元となった資料が、これ
「麻植郡麻植塚村舊跡傳」
コノ郡ノ名ハ麻植ノ神社ヨリ起コレリ麻植ノ神社
トハ延喜式ニ曰ク忌部ノ神社大社或ハ麻植神
ト号スト云々則此神ナリ
麻植ト号スルノ地ハ内原中村森任飯尾敷地牛島上下島鴨島

西麻植ノ十ヶ村ヲ云ナリ此レ古、麻植ノ本地也
故ニ神代ノ日鷲ノ命麻ヲ植エ荒妙ノ衣
ヲ織シメ給ワ古跡ニテ川ヲ麻漬川ト云イ
其山ヲ神(カウ)ノ山ト云 麻晒石 麻搗石ナント今ニ存セリ
是ヨリ西ノ方ノ縣名川島射立忌部
等麻植ニ属シテ一郡ト成ル
東鑑第六曰文治二年閏七月十二日前廷尉
平康頼法師照西恩澤ヲ浴シテ阿波ノ国ノ

麻植ノ保トナルト云々

右康頼法師ノ古跡ハ森任村ニアリ森任村ハ則
麻植ノ中村也此所ニ康頼ノ勧請セシ俊寛僧
都ノ塚アリ俊寛僧都ハ薩州鬼界島ニテ死ス
トモ云 国而康頼法師其菩提ヲ吊ラヒ此處ニ
塚オ築ヒテ祭レリト云傳フ

麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
其ノ處ハ麻植郡麻植塚村



ト云麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云



麻植塚
コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
同地トアリ
神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

以下略

という訳で、当日は当然、資料の内容まで読んで説明している時間はありませんので
機嫌良く、すっとばして行きましたので、も一度見といて下さいね。
なお、話の合間に、くーだらない、くーだらない、オヤジギャグを交えているのは
内緒という事にしませんか(笑)

そんで、

神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

というのは、前に赤っ恥かきましたが、下の写真の「五所神社」(通称ゆうがさん)
のことですので、念のため。
御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 

「麻植郡郷土誌」に大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」とあります。


後先になりましたが

二軒屋町 忌部神社 由緒より
太古天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙製麻紡織の諸業
を創始され特に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時
白和幣(しろにぎて)をつくり神々と共に祈祷(いの)られ天の岩戸開きに
大きな功績を挙げられた。
その子孫は忌部と称して国家祭祀の礼典を掌どり
神武天皇の御代阿波国に下りこの郷土を開拓し代々朝廷に荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した。
それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。
麻植郡の名も麻を植える事から起きたものである。
このように天日鷲命を奉祭する忌部神社は忌部族すなわち徳島県民の
祖神を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野尊崇篤く延喜の制には
官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)西国随一の
格式の大社として、四国一宮とも称せられた。

とありますので「忌部とは?」の「通説の」ご紹介とさせていただきますが
ここらは次回以降でちょっと突っつきます。

ではまずは、この辺りまで。


2012年8月8日水曜日

またこんなのを買ってしまった

ウイークデーなんであっさりと。
またしても、こんなのを衝動買いしてしまいました。
明治39年5月31日小山助学館より発行の「徳島市街詳地圖」復刻版。
清水の舞台から飛び降りた気持ちで大枚500円はたいて購入いたしました。
たった百十年程しか経ってないんで、と言うか、百十年も経ってしまったので
と言うか人によって違うんでしょうけれど、個人的には結構変わったなぁとの
感想でございますね。
一枚物の地図の商品なんで、高解像度でアップするのは控えます。
全体はこんな感じですね。
町名とかが結構変わってて、あれって思うような町名が散見されます。
とか、春日神社奥の三重塔がちゃんと載ってて嬉しいです。

とか大道の八幡神社の南。現在「家神社」のある辺りが「多賀神社」だったりして。
なかなか面白いです。
忌部神社のちょっと東に遊郭があったりするのは・・・
はい、どうでもいいことにいたしましょうね。
でも、ホントに町名が今と全然違ってて面白いです。

まだ水曜日なんで、簡単にね。

2012年8月4日土曜日

あなたの知らない「大御和神社」

暑い、暑い、暑いよぉぉぉぉぉぉぉぉ。
35°とか36°とかってなんだよぉ。体温じゃないんだから。
もうどこにも行く気力なんかありません。
ごく近場のネタにしときます。
と、いいつつ、これは取っといた方がいいのでは?との思いがふつふつと。
いや、自問自答なんで気にしないで下さいね。
あなたの知らない「大御和神社」
というタイトルなんですが、そんな事があるはずもなく
「皆さんあんまりしらないでしょ」ってくらいの感じです。
よくご存知の国府町の「大御和神社」じゃなく、石井町石井の「大御和神社」です。
ほらほら、地元の人以外はあんまし知らんでしょ〜(笑)
場所はここ。

より大きな地図で 石井町 大御和神社 を表示
車では置き場所に困るんで、えーと、どうしましょ。
近くにも車の置き場所無いんですよね。
えーと、えーと・・・
車じゃ行かないで下さい。
必殺技はここでは書けません(笑)
本日8月4日は写真のように「輪抜け神事」を行なっておりましたので
ご紹介さし上げます。
無論、ここから車では入って行けませんよ。
県道34号線沿いに「茅の輪」が堂々と据えられております。
ね、「大御和神社」夏越し大祓ってあるでしょ。
で、「茅の輪」を潜って細い道を歩いて入って行きますと。
そーら。
このようにひたすら「ちんまり」と鎮座ましましております。
ご覧のように神紋は、国府町「大御和神社」と同じ「鍵」の神紋。
いわゆる国府町「大御和神社」の「境外末社」であったのでしょうが
直線距離でも3キロは離れてるんですよ。
あるいは国府には「国璽の印」のダミーを置いといて、ここに本物を・・・
なんてことがあれば面白すぎるんですが、そんな話は聞いた事がありません(笑)
それにしても、ちょっと不思議な所ではございます。
あ〜、暑、あつ、アツー。