2013年12月22日日曜日

鳴門市大麻町 天河別神社(追記)

さすがに冬至だけあって冷え込みキビシイっすね。
オヤジ寒がりなもんでツライです(笑)


2012年4月29日付けの記事、「鳴門市大麻町 天河別神社」についての追記です。

図書館でフラフラしてたら、こんなのがありました。


以前の記事が2012年、この資料が2011年付けなんで、書いた時には気付いていなかったというお粗末さでございます。
では「天河別神社古墳群」についてもう一度簡単なレクチャーを「広報なると2005」より引用いたしますと。

天河別神社古墳群1号墳 県内最古の古墳を確認

市教育委員会では県指定史跡である天河別神社古墳群1号墳の二次発掘調査を今年7月から行った結果、墳丘墓の特徴を残す県内最古の古墳であることがわかりました。

 尾根上に青石を多用し石室を築造

大津町から板野郡板野町にかけての阿讃山脈からのびる尾根には、弥生時代末期から古墳時代前期の墳丘墓や古墳が数多くみられます。天河別神社古墳群は、この地域の中央部にあたる大麻町池谷の低い尾根上に築造されています。
 天河別神社古墳群1号墳は、以前の調査で存在が確認された11基の古墳のうちのひとつで、天河別神社本殿の背後にある直径約25m、高さ3.5m、幅4mの周壕(堀)をもつ円墳です。
 昨年の調査の結果、石室には吉野川南岸で採取される結晶片岩(青石)が使われていることがわかりました。当時、天河別神社古墳群周辺には入り江が入り込み、この石材は吉野川南岸の地域から船で運ばれてきたと考えられます。

 側壁が二重の竪穴式石室

 石室は古墳の中心部に良好な状態で残っており、右の模式図のように内側の大きさは、南北に約4.9m、東西に約1.1mで高さは約1.2m。被葬者は、頭を北側に向けて埋葬されていたと考えられます。
 古墳の構造は、墳丘の上半分が頂部を平坦に削りだした後、墓壙(墓穴)を堀り、平坦面から上部は盛り土を施した後に内部を被覆土で充てんしています。 
 墓壙の平坦面の上には石室が築かれています。石室の底(床面)の下部構造は一番下に、断面が台形状の土の「基台」があり、それを覆い隠すように粘土に小ぶりの川原石を混ぜた礫混粘土をはり付けて、「礫床」をつくっていました。その上の棺を置くため粘土棺床は約40cmと厚く、2回に分けられてはられていました。その上には、やや大きめの河原石を使った礫混粘土が積み上げられ「礫混粘土帯」ができていました。
 上部構造としては、礫混粘土帯の上に結晶片岩(青石)の「板石積み」の側壁があり、側壁はやや内側に傾斜を持たせながら積み上げられ、持ち送り状に積まれていました。また、側壁の外には結晶片岩と砂岩でできた石囲いが石室を囲んでおり、二重構造になっています。石囲いに接する西側には「板石敷き遺構」が見つかりました。天井は石室上面の配石状況の高さから木のふたによって閉じられていたことが想定されます。
 木棺や遺骨などはすでに腐食してしまい見つかりませんでしたが、石室内からは鉄剣と古墳時代最初期に作られたとみられる土器の破片が見つかっています。

近畿地方の竪穴式  石室の起源とする説も

 これまでは平成12年に発掘調査された大麻町大谷の西山谷2号墳が県内最古の古墳であり、国内最古級であるとされてきました。しかし天河別神社1号墳は(1)西山谷2号墳では一部しか見られなかった石室側壁の二重構造が石室を全周していること(2)副葬品が少ないことなどから、さらに数十年古い3世紀後半に築かれたものであると推定されています。
 また、この2例の築造年代は土器の破片などから近畿地方で見られる同様の竪穴式石室よりも古い時代であることがわかってきました。これは近畿地方の竪穴式石室の起源が現在の徳島県と香川県にあたる阿讃地域にあるとする仮説を裏付ける発見であると考えられています。

前回の記事でボクは
萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)が3世紀前半の築造と言われておりますので国内最古の地位は明け渡しております
などと書いておりましたが萩原墳墓群は古墳時代以前の築造なので「古墳」と呼ばずに墳墓群と呼ぶので県内最古の「古墳」とはならないそうです。(ふ〜ん)

でこの「天河別神社古墳群発掘調査報告書」に何が書かれているかと言いますと。



あ、スキャンが傾いちゃってごめんなさい。

これも以前に「八人塚古墳見学会報告の追記というか、萩原2号墓について」で掲出した資料と同様の朱の分析が行なわれています。
まずは分析結果を見てみましょう。

これが何を意味するのか。

「萩原2号墓」出土の水銀朱と同様に「天河別神社古墳群」2号墓および4号墓には中国貴州省産の水銀朱が使用されていました。

「萩原2号墓」は3世紀前半頃の築造、「天河別神社古墳群」は3世紀後半の築造。
これは下図年表を見ても
完全に「魏」(あるいは三国時代)と一致します。その後の「晋」の時代と被ったとしても何ら支障はありません。
魏国「文帝」の時代から「元帝」の時代まで数十年、魏国との交流を継続してきた証左だと判断できるのではないでしょうか。
「萩原2号墓」との位置関係にも注目願います。
クリックして拡大してみて下さい。
目と鼻の先というより、隣接している状態です。
もう一つ出土の「二神二獣鏡」も気になるところですが
これも最古級の出土物に属しながら、いくつかの論文を流し読み程度には読んでみましたが、出土一覧にはあってもはっきり言及した資料が見つからなく、ここらは今後の調査に期待したいと思います。

さて、中国「魏国」の時代を通じて交易を続け水銀朱の提供を受け続けていた首領の一族が「ここ」にいた事は明らかです。
それが一体「誰」であったのか?

天河別神社の御祭神は「天河別命」。奈良時代の「朝野群載」にも「天河別神」とあり、これも再度の記載となりますが

板東村と大谷村との山の奥に あまがつぶといふ高き山有り、古へ天河神社てふは是なり
後池谷村に移し祭りて松童権現といふなりとみつ、いともくすき事なる、まゝ人のあやし
といふべきことながら書記しける「朝野群載より」

とあり
「あまがつぶ」は「天円山」と書き、別名天ヶ津峰(あまがつみね)。
頂上には「天ヶ津神社」があり、「天ヶ津神社」の伝承は

祭神は天錐命(天鈿女命)である。天照大神の岩戸隠れの折、ホトを丸出しで踊り大神を引き出した女神である。やがて瓊瓊杵尊に従って天下るとき、出迎えた猿田彦命と連れだって天下った。猿田彦命は西の大麻山に祀られ、天錐命は猿田彦命と相対してこの山に鎮座されている。以来大麻山に棲む猿が峰伝いにこの山に遊びに来た。

ということであります。
さて、どのあたりに考古学と伝承との接点があるのでしょうか。
なかなか妄想のしがいがあるじゃないですかね(笑)

あ〜疲れた。
年内もう一つぐらい書きたいけど、最後の一週間、修羅場だからどうなるかワカンナイっす。
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以下はナイショのおまけ(笑)



2013年12月8日日曜日

カメラが無い

今回の話はフィクションであり実在の人物・団体等はすべて架空の物であります、と書きなさいと言われて書いております。

*

奥「ふ〜ん、でカメラが無くなったと」
自「そう、どこで無くしたか分らないっす」

画像はイメージです

奥「探したの?」
自「探した、さがした。そりゃもう一生懸命」
奥「じゃあ、その日行ったところは?」
自「え?」
奥「例えば、どこの写真が写ってるのかと聞いておるんですよ」
自「あ」
奥「『あ』じゃない!その日はどこの写真を撮ったのかな?」
自「あの....」
奥「神山の阿野か?」
自「いや....」
奥「祖谷まで行ったの?」
自「その...」
奥「はっきり言えやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!(テーブルをドン!)」

画像はイメージです

自「はいっっっっ!、吉◯◯市の◯◯から登って◯◯も登って◯◯の山道を20分くらい走ると三叉路のとこに◯◯◯◯があるので、そこと、ちょっと手前の◯◯◯◯◯を」
奥「ほほぉ、ワタシは◯◯◯の出だから知ってるけど、あそこは◯◯の◯◯病院跡に深夜零時に合わせ鏡を持って行くくらい、ヤバいとこじゃないですか」
自「まあ、そう言う人もいらっしゃるようで...」
奥「それで、ヤバそうな状況にはなってないの?」
自「はいっ、山道を登ってるうちに、晴天だったのが急に曇ってきて、あたりが暗くなってきて、背筋がやたらと寒くなってきた程度です」
奥「その状況がヤバいとは思わなかったと...」
自「は、石の◯◯◯を撮るのに一生懸命で...」

画像はイメージです

奥「ふぅぅぅぅ.....(大きなため息)」
奥「あまり言わなかったけどね、どれだけ外から妙なモノ連れて帰ってきて困ってると思う?」
自「あうあうあう...」
奥「こう見えても実家は◯氏の末裔、◯◯の神祇を受け持っていた系譜。今でも年に一回◯◯◯◯の◯◯◯◯◯神社で一族の祀りを執り行ってるのは聞いてるでしょ」
自「は、はい。承っております」
奥「そのワタシが手こずるようなモン連れて帰って、ど〜ゆ〜コト?」
自「えぐえぐえぐ」
奥「ドアは勝手に開くわ、ピアノも勝手に鳴るし、二階で走り回る音は聞こえるし、知らない人が聞いたら、お化け屋敷と思われるじゃない!」
自「知ってる人が聞いたら、『ああ、やっぱり』って思うでしょ(小声で)
奥「ああ?何か?」
自「いえ、何も」


今回の話はフィクションであり、ハクションではありません。


奥「これ何か分る?」
自「茶色のドロドロしたモンですね」
奥「あんたが帰ってくる前に玄関に置いといた『盛塩』。帰って来て一晩でこうなるのよ、どう思う?」
自「あうあうあうあう....」
奥「地図見たら分ると思うけど、ここらは◯◯◯◯神社と◯◯◯神社と◯◯神社があって、こう線を引くと...」
自「はあ、囲まれてますな...」
奥「次に、◯◯寺と◯◯寺と◯◯寺で線を引くと」
自「これも囲まれてますなぁ」
奥「(ドン!)」
自「ひぃぃぃぃ」
奥「二重の結界に囲まれて、お札貼って、ってやってるのに、盛塩が一晩でこれ!」
自「大根の一夜漬けにも使えんねぇ」
奥「今ゆ〜たのは、この口か、この口か?」
自「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
画像はイメージです

自「やるじゃない」
画像はイメージです


今回の話はあくまでフィクションであり、マンションではありません。


奥「で、結局何が言いたいの?」
自「あのね、あのね、今日の新聞に家電店のチラシが入っててね、ね、ね、ほらデジカメがチョー特価なの」
奥「で?」
自「買っていい?」
奥「今ゆ〜たのは、この口か、この口か?」
画像はイメージです

自「たわらば!!!!!」

画像はイメージです

今回の話は何を言ってもフィクションであり、ペンションではありません。


奥「無くしたカメラを見つけるまで、次のは買わん!!!」
自「ちょ、ちょっと、それは理屈がおかし...」
奥「はぁ?」
自「だって、カメラが無いとブログとか....」
奥「あんなの誰も見てないわよ(キッパリ)」
自「いや、真実を求めるために...」

画像はイメージです


奥「うちの真実はこの預金通帳じゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
自「なんやてぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
画像はイメージです

自「こらあきまへんわ」

と、いう訳で長らくブログの更新が止まっていたのはこう言う理由からでした。

奥「書くネタが無かっただけじゃない」

お後がよろしいようで。

今回の話は誰に何と言われてもフィクションであり、オークションではありません。

あ〜カメラが欲しいよぉぉぉぉぉ..................

2013年10月27日日曜日

阿波(awa)についての一考察

まーた前回から間が空きに空いてしまいました。
そうです「鬱」です。どうだ凄いだろうなんて自慢しちゃいます(笑)
で、突然訳の分らない記事を書き出すんです(涙)
で、今度の記事は困った事に大師匠の記事と内容が被ってしまうのです。
もちろん、当記事がスカなのは皆さんご存知でしょうが(笑)

すいません、師匠の逆鱗に触れないように慎重に書くつもりですが、多分碌なことにならないのは承知の上です。
それでも書いてしまうのが悲しい性というもんなんでしょうかね(苦笑)

阿波国の語源がわかりました
阿波国の語源がわかりました 2
阿波国の語源がわかりました 3

こんなスゴい記事はワタクシにゃ書けないのは自覚しておりますので、そこんとこを含んで御覧下さいませ。

さて、阿波の国の読み方についてなんですが、当然「awa」と思われておりますが、音読みでは「波」を「は」と読む事よりローマ字表記では「ha」となります。
この読み方は、「〜は」と記載して「〜わ」と発音する事からも「aha」つまり「あは」と読んで「awa」「あわ」と記載するようになったという事は自然に納得できるのではないかと思います。
でも、ワタクシちょっと考えてしまいました。
「波」の読み方、ホントに「ha」だったのでしょうか、と。
「阿」についても同じ疑問が湧いてきます。
例えば、万葉仮名で「a」「あ」を現わす文字は「阿」「婀」「鞅」「安」など多くの文字があり、それが全て同じ読みの「あ」でいいのか?
軽々に決め付けてはいけないのす。
「は」に至っては
八、方、芳、房、半、伴、倍、泊、波、婆、破、薄、播、幡、羽、早、者、速、葉、歯
などの書き方があり、これも同じ「は」の発音であるかは疑問です。
同じ発音なら、同じ文字を使っても良いのではないかと思うからです。
とは言っても同じ意味の言葉を違う文字で書いてある場合もあります。
例えば、「大蛇」記載する場合に『古事記』では「遠呂智」とあり『和名抄』では「乎呂知」と書いてあります。
この場合「遠」と「乎」は「を」であるのでどちらを使っても良い、ただし「お」を表す意、於、淤、乙などの文字は使わない、等の決まりはあります。
本居宣長も『古事記伝』の「仮字かなの事」の条に、文字の区別は明らかに音の区別であったと書いております。
つまり「阿」「婀」「鞅」「安」は同じ読み方では無かった、と言えるのではないでしょうか。
同様に「波」もそうです。
読みを文字にすれば「は」ですが、これを本当に「ha」と読んでいいのか?

よく古の発音が違っていた例として
1516年の『後奈良院御撰何曽』、「母には二度会ひたれど父には一度も会はず」
との謎掛けがあり、答えは「唇」と言う事なので、当時は「はは」を「ふぁふぁ」
つまり「fafa」と発音していたとの説明を見かける事ができます。
では、元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令、「諸国郡郷名著好字令」により「粟」国から「阿波」国に変わった頃も「は」を「fa」と発音していたのでしょうか?
ボクは違うと思います。
まず、先の謎掛け
「母には二度会ひたれど父には一度も会はず」
「はは」を「fafa」と読むから答えは「唇」。
ふ〜ん。
では皆さん、声に出してはっきりと「ふぁふぁ」と発音してみて下さい。
唇はちゃんと二回触れ合いましたか?
個人差はあるでしょうが、非常に微妙な触れ方ではないですか?
結論を先に書きましょう、和銅6年以前には「は」は「pa」と発音していたと思います。
つまり「波」は「pa」と読みたいのです。
例に出していいか疑問ですが、腹話術の「いっこくどう」がテレビで言ってました。
「腹話術の本で勉強していた時、『マ行』『バ行』『パ行』は唇を合わさなければ普通は発音できないと書かれてました」と。
逆に言えば、それ以外の音は唇を触れ合わせなくても発音できるのです。
じゃあ、「阿波」は「apa」と発音していたのか?
と聞かれれば、「そう思う」と答えたいのです。
例を出せと言われれば、今でも用法として
「金波銀波」と書いて「きんぱぎんぱ」と読む例もあります。
琉球方言の一部には、ハ行をパ行音で発音する方言、つまり中央語の7世紀以前の状態を残す方言が現存しており、例えば奄美方言では、
「花」は「パナ」、「人」は「ピトゥ」、「骨」は「プニ」と発音するそうです。

漢字の音としてはどうなのでしょうか?
西暦582年に突厥から分離した西突厥の可汗(君主)に大邏便(たいらへん)という可汗がいて、阿波可汗と記録されております。
突厥支配地域図

その読み方は「アパ・カガン」、中国読みで「アパ」に「阿波」の文字を当てはめています。
もう一つ、紀元前308年~紀元前257年アショカ王がインドの辺りから東西南北に仏教宣教師団を派遣し、その中で「アパランタカ(Aparantaka)」へ向かった一団があります。
そのアパランタカは中国語表記では「阿波蘭多迦」と書きます。

アパランタカ

ここらについては「昔インドの阿育王(アショカ王)が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」との伝承もあるんですが、それは本題とは違うので今回はスルーします。
(気になる人は「伏線になるかな」を見てね)

そして、ここらに付け加えて「漢字古今音資料庫」という台湾のサイトで漢字の古代の読み方を検索する事ができます。
これもちなみになんですが、中国本土の文字は「簡体(かんたい)」になってて、こんなサイトもできないんじゃないかと思ったりします。
 例えば上の様に時代を選び(例として先秦の高本漢系統)「字」覧に「波」と入力して「確定送出」ボタンをクリックすると
聲母覧に「p」、韻母覧に「wa」と表示され「pwa」つまり「ぱ」もしくは「ぷゎ」に近い読みであると検索できます。
ちなみに「隋」の時代になると「pua」なので「ぷぁ」のような読み方になります。

これらより「阿波」が「阿波」となった頃、その読み方は「apa」「あぱ」でなかったかと考えるのです。
まあ、ここらは「個人的に」とつけて逃げを打っておくのが常套手段と言うものでしょう(笑)

では、「仮に」(おっと、ずるいなあ)「阿波」が「apa」であったとすれば、どうなるのでしょう?
あるいは「あっぱれ(天晴)」は「阿波あれ(あぱ、あれ)」を起源としたとかの推論もできそうじゃないですか。
それともう一つ、「阿波」が全国二百数十箇所に拠点を置いている証拠となる事です。
それは
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こうくると思ってたでしょ〜(笑)

まあ、万葉仮名の音韻変化などを書き始めると、もうワタクシめの手には負えなくなってきますので、「apa」と読んだところで、それが何を意味するかまで書ききれないところはご容赦いただきたく、今後の課題とさせて下さいませませ。

2013年9月26日木曜日

勝命とは

え〜と「匿名」さんからご質問がありましたので、分った範囲でお答えいたします。
ところで、コメをいたいております皆様へ、名前の欄に何も入れないと「匿名」になるのですが、そうすると「匿名」さんが増えすぎて、どこの「匿名」さんか分らなくなりますので、できれば何かしら入力いただければありがたいです。

ところで「匿名」さんからのご質問は
「勝命という名称はどのようなところから名づけられたのか ご存じでしょうか?」
というものでございます。


より大きな地図で 阿波市 勝命神社 を表示

大体この辺りが「勝命」なんですが、確かに「勝命」って気になる地名ですよね。
「匿名」さんが仰るように地名に「命」が付くのは珍しいように思います。

正直モンなんで書いてしまいますが(笑)確たる由来は出てきませんでした。
一番有力な説が「阿波國古風土記」逸文に記されてます。
「倭建命」が大御櫛笥を落とした泉「勝間の井」があったという故事に寄るというものです。ちなみに「阿波國古風土記」逸文では「倭建命」は「倭建天皇命」と記されているのは有名な話です。

また、慶長二年の分限帳には「勝名」とあり、慶長年間の絵図には「かつミやう」とあり、寛永年間の絵図には「かつみやう村」、やはり「勝間の名」より「勝名(かつみょう)」となり「勝命」と記されるようになったと思われます。

(写真は「勝命神社」)


では「勝間の井」はどこにあったのか?
ここらは
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
阿波國続(後)風土記について(5)
で、みっちり書いたつもりだったんですが、まだまだ修行が足りませんでした(笑)
これを調べてると、出てきました(笑)
画像はありませんが、文面としてありました。
「阿州久千田庄勝間井於善福寺」
これは京都北野社所蔵の一切経奥書に記されているそうです。
この一切経は、当時の将軍足利義満が、明徳三年、氏清とその一族、あるいは戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、壱千百人の僧侶を集めて供養せしめ、引続き応永8年に北野社の社頭に、東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、「北野経王堂願成就寺」と名ずけ毎年10月、10日間に亘って万部経会並経典書写などの仏事を行い供養したものです。
上記奥書はその後数度行なわれた一切経書写のうち應永十七年(1410年)のものです。

善福寺は廃寺となっていて場所は分りませんが(まだ調べてないんっす)久千田庄は久千田村近辺のことと思われ、今の阿波町では久原、大道南、新開、大次郎、大坪、庚申原、四歩一、川添、北ノ名、山王などを言います。
ここに阿波國古風土記」逸文に記される「勝間井」があった訳です。
つまり、「倭建天皇命」がここにいた、少なくともここを通ったということですね。

ちょっと話がズレかけてきました、要は「勝間井」があったため、とワタクシなりには結論付けさせていただきたいと思います。
こんなもんでよろしいでしょうか?
反論は.....していただいても結構です...けど.....(笑)

2013年9月21日土曜日

鴨島町 麻塚神社

どうも長い間書かないと、懺悔の旅に出てるんじゃないのかとか、とっくに死んでるんじゃないかとか言われたりしているようですので(ホントか?)重い腹回りを引きずって、長らくぶりに書いております。
まあ、ビョーキなのは今に始まったことじゃなく、何かしらぶり返してきたら、また沈んでしまうかもしれませんので、ご容赦を(笑)





御覧の鳥居も無い、小さな小さな祠、神社でございます。


徳島県吉野川市鴨島町牛島に鎮座いたします「麻塚(おづか)神社」。
場所はここ

より大きな地図で 麻塚神社 を表示
御祭神は「天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)」
忌部氏の祖神である天太玉命の后神名であります。
『古語拾遺』によると、阿波忌部の一部は、天富命に率いられ黒潮で房総半島に渡来し、故地(阿波)の地名にちなんで「安房」と名付けた。
とあります。
また「安房忌部家系之図」にも

「阿波國忌部の居まいし地(ところ)なれば安房と称す」との意味の記載があります。
また「天比理刀咩命」を主祭神とする神社としては、安房国であった千葉県館山市の洲崎の「洲崎(すのさき)神社」、洲宮の「洲宮(すのみや)神社」があります。
宝暦3年(1753年)に成立した「洲崎(すのさき)神社」の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという(wikipedia)。

あるいは、東京都品川区北品川三丁目にある品川神社(しながわじんじゃ)の主祭神も「天比理刀咩命」でありますが、こちらは文治3年(1187年)源頼朝が安房国の洲崎神社から天比理乃咩命を勧請して祀ったのに始まると伝えられております。

で、「天比理刀咩命」については同「安房忌部家系」に記載される「斎部宿禰本系帳」部
「天比理刀咩命」一伝「稚日女命」とあったりして、なかなかにドキドキさせていただきます(笑)。
もちろん、この前後を読んで、もっとドキドキしていただいても結構です(笑)

その「天比理刀咩命」を祀る神社が上記以外にない事から、延喜式 式内大社「安房国安房郡 后神天比理乃咩命神社」の元社が、このショボイ(笑)祠であることは、まず疑いなかろうと思いませんか?

また、「安房忌部家系」には、こんなことも書いてあって、イロイロ考えてたんですが、いつまでたっても考えが纏まらないんで、とりあえず出すものだけ出しておきますので、煮るなと焼くなと(焼くなよな)如何様にでもなさって下さいませ(笑)。




2013年7月15日月曜日

安房神社はどこから?

以前から、ちらちら書いてたんですが、誰も気付いてくれないのか無視されてるのか(笑)反応がなかったので改めて書いてみます。
千葉県館山市に鎮座いたします、式内社(名神大社)、安房国一宮である「安房神社」がございます。
千葉県館山市大神宮589、場所はここ。


大きな地図で見る


Wikipediaを見ますと
安房神社(あわじんじゃ)は、千葉県館山市にある神社。式内社(名神大社)、安房国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「大神宮」とも。神話の時代に阿波国より渡ってきた忌部氏による創建とされる。
大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、開拓したとされる。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸、その周辺を安房郡と名附けて天太玉命を祀る社を創建した。さらに続けて、その社が今は安房社と呼ばれており、神戸には斎部氏が住んでいると書かれている。
館山市布良(めら)にある布良崎神社の『郷社布良崎神社略誌』では、天富命は上陸した房総半島南端の布良にある男神山へ天太玉命、女神山へ天乃比理刀咩命を祀り、その後さらに上ノ谷に天太玉命、下ノ谷に天忍日命の仮宮を建てたのが当社の「上の宮」と「下の宮」の起源だとしている。やがて布良を出発点として半島開拓を進めた天富命は、宮ノ谷(みやのやつ)に「太玉命ノ社」(当社)を創建したのだという。『安房忌部家系之図』によれば、養老元年(717年)に布良から西へ数百メートルの現在地に遷座し、同時に天富命を下の宮に祀ったとしている。また、周辺の地は神部とされ、全国八神郡の一つとなった。『新抄格勅符抄』によれば大同元年(806年)に神封94戸が充てられ、さらに10戸が加増されている。これについて、神郡が定められたのは大化5年(649年)で、その後当地は『和名類聚抄』にある神戸郷に属することになったのではないかと推測されている。

安房神社の公式HPを見ても
■ 神代 
安房神社の創始は、今から2670年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。

その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。

とあり、往古阿波忌部が房総半島へ進出し、この神社を創建したことは間違いありません。延喜式神名帳にも
安房坐神社とあり(読み方は「あわのざ」もしくは「あわのいます」神社と思われる)
安房(阿波)に坐する、つまり阿波から移された神社であることが社名に表されております。
また上記「神名帳考証」にも「阿波忌部所居便名安房郡 今安房國也」と記され、安房国が阿波より派生した国名であることを示しております。

でも、阿波からやって来たと云っても、阿波國結構広くて漠然としております。
忌部だから麻植近辺だろうとは想像できますが。
で、調べてましたら(何を)出てくるもんですねえ(何が)。
安房神社の元社。
山崎村神社記より、画像は見やすいように2ページを併せてあります。
原本の画像が欲しい方は仰って下さい。
じらしても面白くないのであっさり書いてしまいます。
山川町岩戸に鎮座いたします「岩戸神社」

舊伝曰当社上代安房国安房郡安房神社御迁(遷)座具古社也止(と)伝

前後しますが場所はここ。

より大きな地図で 岩戸神社 を表示


社伝は御覧の通り「安房神社」と比べたりしてはいけません(笑)
にしても、阿波忌部は「ここから」黒潮に乗って房総半島まで進出して行ったのです。
そのスタート地点が「ここ」なのです。
このように、神代忌部の旧跡が残る「聖地」でもあるのです。


あ〜久々にブログ書くと、肩が凝ってしゃーないです。
なので、内容はあんまり「ないよ〜」。


大爆笑!!!して下さい、すいませんけど(涙)


2013年7月7日日曜日

天石門別八倉比賣略記

もう、いい訳すらいたしません。
長い間更新しておりませんで、申し訳ございません。
諸般の事情はございますが、ここに書くようなことでもありませんので、ひたすら平伏するのみでございます。
もうしばらく、このような状態が続くやもしれませんが、ご容赦いただきたく伏してお願い申し上げます。

で、あんまし書くこともないんですけど、ちょっと出してきたい資料を見つけたんで、ご紹介だけ。

徳島市国府町西矢野に鎮座いたします「天石門別八倉比賣神社」。


ご参拝された方はご存知でしょうが、本殿右手側に「天石門別八倉比賣略記」と記された掲示板がございます。
こんなのですけど。
何が書かれているかと云いますと「略記」です。
あ、石は止めて、タマゴも止めて。
などとバカなことを言わずに内容を転記いたしますれば。

天石門別八倉比賣神社略記

延喜式内大社 正一位 八倉比賣神宮
御祭神 天照大神 古来大日霊女命と尊称
御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和8年(841)8月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観13年(871)2月26日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)3月3日正一位となる。 
御神紋 抱き柏 
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜212m)一帯200余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより2150年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。
矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも
柿本人麿(萬葉集収録)
当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736―41)まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。

この太政官符の写本が「徴古雑抄(ちょうこざっしょう)」にありましたので貼っておきませう。

要は中央官庁からの「お達し」として、阿波國国司に
「八倉比賣神の祈年月次祭は日本国としての大典であるため怠るべからず」
という意味であるのです。
これが関白内大臣師通の記として残っていたと云うものです。


と、ここまで書いたとき、師匠の
「式内社(天石門別八倉比賣神社)比定①  八倉比売神社 徳島市国府町」
の記事が先にあったことに気が付いてしまいました(涙)

ああああ、でもここまで書いちゃったので公開してしまいます。
やっぱ、ロクなもん書けないってことです(涙)
ただもひとつ書いておかなければならないことは「天石門別八倉比賣神」が「忌部神」と書かれていることですね。
ではでは。
しっぽ丸めて引っ込みまーす。

2013年6月8日土曜日

桜間の碑石

個人的に言って..........
阿波弁で「しんどい」。
全国的に分るように言えば「疲れた」。
英語圏も含めれば「I'm very tired」(warai)(笑)
けど、たまには何か書いとかないと、死んだんじゃないかなって思われるので(笑)
難しい事書く気力も無いし、時間もないので、手持ちの資料からと、写真があるものを....

これ行きましょか「桜間の碑石」、近場だし(意味ないけど)。
あんまし、古代史とは関係ないかもしんないけど(笑)

ご存知、石井町高川原の桜間神社、場所はここ。

より大きな地図で 桜間神社 を表示

徳島新聞の文化財記事によれば
石井町高川原の桜間神社にある高さ4・2メートル、周囲10・2メートルの巨大な石碑。刻まれた文には、かつて「桜間の池」と呼ばれる全国でも有名な景勝地が、この地にあったことを伝えている。1969(昭和44)年に県文化財に指定された。

 文中には、鎌倉時代に編集された夫木(ふぼく)和歌集で桜間の池は「鏡のように美しい池」と詠まれている、とある。正式な記録はないが、池の面積は両端が見えないほど広大だったと伝えられている。しかしその後、吉野川から流れる土砂の堆積(たいせき)で江戸時代には小池ほどになった。

 美しい湖のような池があったことを後世に伝えようと、1828年、徳島藩12代藩主・蜂須賀斉昌(なりまさ)が石碑建立を命じる。約6千人を動員し、海部郡東由岐(現・美波町)の海岸から約75トンの巨岩を運んだ。運搬から石碑完成までに、約7年かかったとされている。

 ここにも同じような事書いてありますね。
で、ここに75トンもの石を運んだ理由が、阿波藩主蜂須賀斉昌(なりまさ)が江戸で、徳川家斉に拝謁した時、将軍から、応永2年(1406)の「夫木(ふぼく)和歌抄」に収録されている句「鏡ともみるべきものを春くれば ちりのみかかる桜間の池」とある桜間の池の所在について尋ねられた時、答えられなかったことを恥とし、調査の上、記念碑を建てる事を思いついた事によるものだそうです。
そんな事思いつくなよな!
家臣にとっちゃ、いい迷惑この上ないモンですな。
 で、「お石」はこっち。
ここ、ここ。
で、この「お石」なんですが、海部郡由岐町 東由岐由宇海岸、通称「まわりが鼻」を廻った小島の磯に二個あった「蛙石」の通称「めす石」を運んで来たものです。
この「蛙石」は俗に「エーバエ」と呼ばれ(意味は不明)「おす石」は今尚残っているそうです。
表面に刻んであるのが「桜間池石文」。
まあ、現地へ行かれた方は直接読んでいただければいいんですがね(笑)
夫木和歌抄に懐中抄を引く「鏡ともみるべきものを春くれば ちりのみかかる桜間の池」阿波の国と注したるはすなわち名西郡なる此池なり、抑今の太守は物ごとにいと深くわたらせたまへは、国政のひまひま皇国の故実をこのませ給ふあまりに千代萬世の後までも此池のあせざらむためにことし文政十余り一とせ長月石文建させたまふとてあつらへさせたまふままにこのよしをかきつけはべるは幕府内史局直事源弘賢時にとし七十一なり。
 でもって、裏面に刻まれているのが「桜間池石碑陰記」なんですが、これは文章が漢文でちょっと難しいので、柴野碧海釈文を出します。

文政十一年八月廿八日、臣武市信圭、臣長浜長致、命を奉じ、石を海部郡東由岐浦に採り十一月二日を以って程を起し、海軍十五里許十二年十一月十四日を以って、別宮口に達す口にあること二歳、臣斉藤惟裕模勒の事に任し、功畢るを告ぐ。天保二年十月三日再び程を起し、陸運四里許、以って桜間邑に達す。三年九月、営建の功畢るを告ぐ。初め二臣の斯の石を擇ぶや、人其の鉅重にして致す可からざるかと疑えり。而るに二臣は之に任ずること甚だ鋭にして、其の之を運ぶに術有り、載するに(木へんに戈)背り、車有り、浮ぶるに桶有り、挽くに舟有り、颶風の漂没する所と為る者再びなり。一は中島口に于てし、一は和田の洋に于てなり。其の之を挙るに亦術有り、束するに帯有り起すに鈎有り、鉗有り、他に凡百用に応ずるの器は、皆臣長致が創意にて之を製し、而して臣信圭之を賛襄して、措置す、長致は久しく作部に在り、巧思を以って称せらる。信圭は中外に閲歴し、老成練達にて今民曹に官たり。故に択んで之に任ずるに、皆其の命を黍しめざる所以なり。凡そ、須る所、巨(木へんに戈「木戈」)三事、巨車一両、浮桶一千有餘事、鉄帯一事、長さ五丈、紐之に作る、鉄鉗二事、長さ三丈、柄の長さ七丈、挽舟三千餘隻挽夫六千餘名なり。公、群臣諸吏の心を用ふるの労、民夫の力を效すの多きを以って、其の功を没することを欲せず。臣柴升乏しきに承け、筆に載す。故に其の本末を記し、併せて碑陰に勒し、以って来世に告げ使む。

これは凄い事が書いてありますよ。
もう一度、出して行きます。
文政十一年八月廿八日、臣武市信圭、臣長浜長致、命を奉じ、石を海部郡東由岐浦に採り十一月二日を以って程を起し、海軍十五里許十二年十一月十四日を以って、別宮口に達す口にあること二歳、臣斉藤惟裕模勒の事に任し、功畢るを告ぐ。天保二年十月三日再び程を起し、陸運四里許、以って桜間邑に達す。

別宮口は旧吉野川の河口近辺を云います。吉野川の前は別宮川と言っていたのはご存知の通り。勿論「別宮八幡神社」より来てる事は論を挟まないでしょう。

三年九月、営建の功畢るを告ぐ。初め二臣の斯の石を擇ぶや、人其の鉅重にして致す可からざるかと疑えり。而るに二臣は之に任ずること甚だ鋭にして、其の之を運ぶに術有り、載するに(木へんに戈)背り、車有り、浮ぶるに桶有り、挽くに舟有り、颶風の漂没する所と為る者再びなり。

人がその重さのものを運べるかと疑ったとき、二人の家臣「武市信圭」と「長浜長致」が「やりましょう」と立ち上がった訳ですな。おお、プロジェクトX!!
それ(石)を運ぶのに、(石を)載せるのに「木戈」(修羅のようなもんですかね)、車を使い、桶を使って海に浮かべ、それを舟にて曳航して行く、そして颶風(暴風)にて二度水没したと。

一は中島口に于てし、一は和田の洋に于てなり。其の之を挙るに亦術有り、束するに帯有り起すに鈎有り、鉗有り、他に凡百用に応ずるの器は、皆臣長致が創意にて之を製し、而して臣信圭之を賛襄して、措置す、長致は久しく作部に在り、巧思を以って称せらる。

一箇所目は那賀川町中島港の沖、もう一箇所が和田島。そして気になるのが「長致は久しく作部に在り」のところ作部(つくりべ)、何の?どこの出身?
この長致が石をサルベージするのに必要な道具を造り上げたというんですから、驚愕です。

信圭は中外に閲歴し、老成練達にて今民曹に官たり。故に択んで之に任ずるに、皆其の命を黍しめざる所以なり。凡そ、須る所、巨(木へんに戈「木戈」)三事、巨車一両、浮桶一千有餘事、鉄帯一事、長さ五丈、紐之に作る、鉄鉗二事、長さ三丈、柄の長さ七丈、挽舟三千餘隻挽夫六千餘名なり。

で、ここで信圭が「挽舟三千餘隻挽夫六千餘名」をコントロールする役目を行なっていたと云うのですな。凄いですね、技術屋と現場監督(笑)が完璧にシンクロして事を進められたのです。

公、群臣諸吏の心を用ふるの労、民夫の力を效すの多きを以って、其の功を没することを欲せず。臣柴升乏しきに承け、筆に載す。故に其の本末を記し、併せて碑陰に勒し、以って来世に告げ使む。

此の一大事業を書き残さないわけにはいかないと、石碑の陰陽に刻み来世にまで告げようとした。

この石碑の陰面にしても文字が刻まれている部分の平坦さは1ミリ以内に納められているそうで、当時の技術の高度さが伺い知れます。

と言う訳で、この一大プロジェクトは終了した訳なんですが、個人的に気になるのが「由岐」の地名の由来です。由岐町史などを見ても「和名抄に記載のある...」云々とは在りますが由来自体は書かれていません。ヒントとして「三岐田町郷土読本」(由岐、木岐、志和岐、田井が一時期合併して三岐田村となっていた)に「由岐は靫(ゆぎ、矢を入れて背負う入れ物)から出たのではないか、上古、靫作部(ゆぎつくりべ)がいたからではないか」との説を挙げております。

確かに京都鞍馬に「由岐神社」があり、其の由来は「靫(ゆぎ)」から来ているとありますので、あながち間違いではないように思えます。
さらには、京都の熊野郡海部(あま)村に「聞部(ききべ)神社」があり、木岐は其の伝では無いでしょうか、との説です。

先に書いた「長浜長致」が作部の出だったというところとか、「聞部(ききべ)神社」が「海部(あま)村」にある辺りに、証明はしにくいですが、近しいものが在るように思えます。

と、こんなトコで、手持ちの資料貼っただけなんで、1時間ちょっとでできてしまいました。(手抜きって言わないでね、碑文の入力にはけっこう時間かかってるのよ)
桜間神社までは今回書けません、そんな体力残ってません。