2013年3月28日木曜日

阿波國続(後)風土記について(5)


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その5。
前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
読んでない方は見てから戻ってきてね。
とはいいつつ、ほとんどエンドレスの様相を催してきました(笑)
でも、こんなこと書いた時は、案外すぐ終わるんだよーん。
前回は、純(夏菜)が眠っている愛(風間俊介)の手を祈るようにさすり、声をかけていたが、手術から二週間以上経過しても昏睡状態が続いていることから、医師は今の状態を維持することしかできないと純たちに告げる。
ここまで書いたと.......あ、違う?


後藤尚豊氏の「勝間の井を探る記」を出してたんですね(笑)

 観音寺村にしたらひの池あとてあるを、勝間の池なりと、この里の人、言傅へたるよしなるに、勝間の井の清水は、阿波郡勝命村にあり、とも聞しかば、いかなる事にや、と思ひしからに、勝命村にものして、行かふ里人に、さる名の付池ありや、と、たずねもとめしかど、しらずといへるは、またいぶかしくて、このむら長、がり人をやりてたづぬるに、しらずといへり。かくてかゑらんもあたらしくて、また行先々にてたづねしかば、家あるじと見し人は、しらずといへるに、かたへの人、そはちくさ池ならん、この池かみの御池とつたへしゆへに、と、いへれば、そはいずこぞとたづねしかば、指さしておしゆるがまに〵、行て見るにちひさくて水そこもみゆるばかりの池にて、小溝ありて水流れにいれるを、かたへび稻かる若人にとへば、日開谷の用水の小俣なりといへり。
 此池の名はととへば、みづたまりと申傅へるよし、またちくさ池ともいふや、と、とひしかば、壹人はしらずといへるを、壹人はテツサ池といふとぞいへり。此あたりに年よりありや、と、とへば、かの耳しひたる人なり、今壹人あるや、と、とへば、女なれどかしこにあり、と、ゆびさすまゝに、人をやりてとへど、こもしたずといへり。
 さるからに、かゑらんとせしかども、またかの女年寄がりものして、おのれもゆきて、 このテツサ池といへるより、ほかに池ありや、と、たづねしかば、なしとこたへり。
かの老人は、この三十年あまり、あなたよりやみて、ともに得いでずといへば、まづしき人のさばかり長くやみて、さぞくるしかるべしとて、ものなんどとらして、かの家をいでて、このむらよりちかき、中のむらには、しる人もあなれば、行てとはばやと、ものする道のかたへに、ちいさな池は處々にあり。
 行かふ人にこのむらの名は、と、とへば勝命なりといへるぞ、あとさきうちあわぬ、里人のいひことやと思へり。
 さてせんすべなみに、中野村へ行かばとひ見んとて、ゆきてかの心ざす人は、と、とへば、るすなりといへる。
 さるにはや日は、山の端にいりぬべきころとしなれば、とむるをいなみて、いそぎわかれをつげぬ。
 さて道をはやみ、ゆけども〵道はかどらで、火ともすころほひに、からうじて善次坂といふにいたれり。
 この坂地はいとど木ふかく、くらしともくらきに、足もとあしく、身もたをるばかりなるを、つゑもてさぐり、道をもとめてやゝ行々て、木だちもうすく、四日の日の月の雲の間に見えそめしぞ、ありがたしや。

勝間井の清水にはあらで久かたの雲間の月を木の葉がくれに

となん、つぶやきながら、この坂本より拾町ばかりをゆきて、よべやどりしおのがうから、細井氏にゆきつきぬ。

明治五年正月以後に書かれたようです。阿波郡西林村に養母の実家があり、そこに泊まって、勝命村を調査した時の手記です。
ご覧のとおり、その辺りで尋ねまくっても「しらず」とか池があっても「みづたまりと申傅へる」とか。
「みづたまり」は笑ってしまいますね。
で、一日探し疲れて、日が暮れて「つゑもてさぐり、道をもとめてやゝ行々て」ようやく宿地の西林村與頭庄屋 細井栄次郎氏宅に帰り着く訳です。
そして、
「勝間井の清水にはあらで久かたの雲間の月を木の葉がくれに」
勝間の井なんて無かったじゃないか、などとぼやきの一句を呟きながら帰るのです(笑)

あー、自分を見てるようですな(笑)
写真は「勝命神社」


と言う訳で後藤氏の勝間井探索は失敗したのですが、後藤氏知ってか知らずか、これ以前にも勝間井を調べていた人がおりました。
阿波の国学者「野口年長」(1780-1858)
松浦長年の師でありますこの方、著書「粟の落穂(三)」の中で「勝間井の清水」と題する一文を記しております。






さて勝間井の冷水を亡友七條清川が考に、名東郡観音寺村に、元暦二年、源判官、勝浦より讃岐へ(き(「そうにょう」に「小」)給いし時、此所にて馬の口洗ひし冷水也とて、今も義経の馬の舌洗水といふあるを、それなりといへど、餘に據(よりどころ)もなければ、おのれは諾(うべな)はず。安政元年春、慶長二年の分限帳に所付あるを得たり。其中、赤堀某の知行462石の内36石、阿波郡勝間井とあるは、きはめて其所なるべしと思ひければ、何村ならむ、しらざりしを、勝命村に勝間井といふ池ありとききて、即ち彼地へゆかばやと思へど、其頃さはることありて、えものせで、中川真幸(阿波郡市場町伊月の式内社事代主神社の祀官)神主をたのみしに、やがてかしこにいたり、見もし、聞きもしに、勝命村の西に勝間井といふ小名あり、そこに冷水はなし。隣村大俣村の南にスケノカタと云ふ所に二坪計(ばか)り、深さ三尺五寸計りの冷水ありて、此水二反計りの田にかかれり。勝命村よりも六町程あり。是なん勝間井の冷水なるべしと云ひおこしけり。

なんと野口年長、七條(藤原)清川の友人であったのですね。
安政元年春に多分、老齢のため、自分はいけないので、阿波郡市場町伊月の式内社事代主神社の祀官である、中川真幸に調査を依頼しております。
結果「勝命村の西に勝間井といふ小名あり、そこに冷水はなし。隣村大俣村の南にスケノカタと云ふ所に二坪計(ばか)り、深さ三尺五寸計りの冷水ありて、此水二反計りの田にかかれり」と、スケノカタの池を勝間井ではないかと結論づけております。
友人である、七條清川の説は
「餘に據(よりどころ)もなければ、おのれは諾(うべな)はず。」
と却下しております。
この辺りは、官と在野の差で物言いが違ってくるんでしょうか。
が、やはり友人であります。
七條清川について最後の方でこうも書いています。

清川にも語りあひて、ともにたのしむべきを、年は年長にふたつ弟なれど、をとどし身まかりしはあたらしき事なりけり。さて上にいふべきをわすれたり。むかしは大俣村かけて勝間井といひしを、後に勝命村といひ、西の方を大俣村と名づけしも知るべからず。

「どうだ、俺の調査は。やはり、舌洗いの池じゃないだろう」とか、酒でも酌み交わしながら、夜通し語り明かしたかったに違い有りません。
二歳年下の七條が自分より先にみまかった、淋しさが滲むようです。

野口年長の調査にしても、「勝間井」の地名は有るものの、そこが件の「勝間井」である
証左とはなっておりません。
千数百年の流れは、確証をも流し去っていました。

よっしゃ、勝間井編は一応終わっときます。

あ〜ぁぁぁ。年度末なのにこんなの書いてていいんだろうか。
明日一日保つんだろうか。

阿波國続(後)風土記について(6)に続く。

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