2015年12月19日土曜日

備忘録:「倭」はなんと読む?(追記)

「備忘録:「倭」はなんと読む?」の追記です。
では

西暦100年  「説文解字」(発音「イ」)
   この間に発音の変化があった。
西暦601年  「切韻」  (発音「ワ」)
西暦1008年 「広韻」  (発音「ワ」)
西暦1039年 「集韻」  (発音「ワ」)

と書きました。
ところでいわゆる中国の「韻書(いんしょ)」辞書などの
韻書(いんしょ)とは、漢字を韻によって分類した書物。元来、詩や詞、曲といった韻文を作る際に押韻可能な字を調べるために用いられたものであるが、音韻は押韻の必要以上に細かく分類されており、字義も記されているので、字書などの辞典のもつ役割も果たした。wikipedia
の歴史を見てみますと
前回説明した「説文解字」と「切韻」の間に「玉篇(ぎょくへん)」なる辞書があるではないですか。
例によってwikipediaなどを覗いてみますと
玉篇(ぎょくへん、ごくへん)は、中国、南北朝時代、梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典。字書としては『説文解字』・『字林』(現存せず)の次に古い。原本系玉篇は部分的にしか現存しない。
543年に顧野王によって編纂された元々の『玉篇』のことを、とくに原本玉篇と呼ぶ。
とあります。
原本玉篇は中国では滅んでしまい、日本にいくつか残巻が残る。これらの残巻は国宝になっている。現存するテキストは巻八・九・十八・十九・二十二・二十四・二十七の一部
なのですが、日本にはこの「玉篇(ぎょくへん)」を基にして編纂された日本最古の漢字辞書である「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」があるのです。

作は9世紀前半、高山寺蔵本は国宝に指定されております。
「玉篇」自体は残巻しか残っておらず、清朝に楊守敬が『篆隷万象名義』写本を購入して復元したという、いわくつきの辞書でもあります。
「国宝」いうこともあり、画像がほとんど出回っておりません。
しゃ〜ないので、さらに後世(寛政4年)日本語版「玉篇」の解説本?たる「四声玉篇和訓大成」を検索いたします。
すると、
「倭」の発音として「イ」のフリガナが記載されているではありませんか。

つまりは西暦543年編纂の「玉篇」において「倭」の発音は「於為の切(発音)に順(したがう)」つまり「イ」の発音であったわけです。
つまり、つまり

西暦100年 「説文解字」(発音「イ」)
西暦543年 「玉篇」  (発音「イ」)
   この間に発音の変化があった。
西暦601年   「切韻」  (発音「ワ」)
西暦1008年 「広韻」  (発音「ワ」)
西暦1039年 「集韻」  (発音「ワ」)

ということですね。
辞書編纂の歴史から見れば「西暦543年」から「西暦601年」までの間に「倭」の発音は「イ」から「ワ」に変化したのです。
無論「辞書編纂」から見てですよ。
人の口に膾炙する発音がちょうどその時点で変わるはずもなく、大陸は広く
中国の言語学者である李恕豪も『揚雄《方言》與方言地理学研究』(巴蜀書社、2003年)の中で『漢書地理志』の「音聲不同」、『説文解字叙』の「言語異聲」、『経典釈文』の「楚夏聲異、南北語殊」「方言差別、固自不同、河北江南、最為鉅異」など、殷周以来の方言の実在性に着目し、秦晋方言区から呉越方言区まで12の方言区について詳説しており、久米と同様、金印問題を考えるのに「方言論」的視座が不可欠であることを示唆している。
と、これも前回で書きました。
「方言」、いわゆる言語学者が「dialect」とよぶ地方による差異は、一般的に認識されている「方言」だけでなく、職業・趣味などが一致する者同士の間でのみ通じる表現方法(専門用語・業界用語・ジャーゴン)を含むことがあるのでしょう。
あるいは公的な(または官製)の発音であったかもしれません。

それにしても540年から60 0年前後にかけて、いったい何があったんだと思うばかりです。
念のため、日本とアジア付近の年表を覗いてみました。

540年 - 大伴連金村、任那問題で失脚する。秦人・漢人の戸籍造る(紀)。
541年 - 百済の聖王(聖明王)、任那諸国の王、「日本府」、ともに任那の復興を協議する(紀)。
544年 - 百済・任那・「日本府」・再び任那の復興を協議する(紀)。
547年 - 百済、倭国へ救援を要請する(紀)。
548年 - 句麗の陽原王、百済に侵入。百済、新羅に救援要請する。百済・新羅、高句麗を撃退する(『三国史記』)。
548年 - 倭国、百済に370人を送り、築城を助ける(紀)。
550年 - 中国北部で北斉が東魏を滅ぼす。
550年 - 百済、高句麗の奴と捕虜を倭に贈る(紀)。
551年 - 百済・新羅・任那、高句麗と戦い、百済は旧都漢城の地など6郡を回復する(紀)。
552年 - 百済の聖王(聖明王)、釈迦仏像と経論を献ずる(紀)。仏像礼拝の賛否を群臣に問う(紀、538年が史実。紀の編者の改変?)
555年 - 日本の欽明天皇、白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置。
557年 - 中国北部で西魏に代わり北周が建国。
557年 - 中国南部で梁から禅譲を受け陳(-589年)がおこる。
560年 - 北周の皇位が二代目の世祖明帝(在位557年-)から三代目の高祖武帝(在位-578年)へ継承される。
560年 - 新羅、朝貢する(紀)。
561年 - 新羅の使者、百済より下位に序列されたのを怒り、帰国して倭の攻撃に備える(紀)。
562年 - 新羅、任那官家を滅ぼす。紀臣男麻呂、任那に渡り新羅と戦うが、破れる。大伴連狭手彦、高句麗と戦う(紀)。
562年 - この頃、北九州で装飾古墳が盛行する。埴輪が畿内で衰退し、かわって関東で盛行する。西日本で群集墳が盛んに造られる。
568年 - 中国の陳で陳頊が三代皇帝を廃して帝位に就く(在位-582年)。
569年 - 王辰爾の甥、胆津を白猪屯倉に遣わし、田部の丁籍を定める。胆津に白猪史の姓を授け、田令に任ずる(紀)。
571年 - 新羅に使いを遣わし、任那(みまな)滅亡の理由を問う。欽明天皇、任那再興の詔を遣わして没する(紀)。
572年 - 4月3日 - 渟中倉太珠敷皇子、敏達天皇として即位( - 585年9月14日(敏達天皇8月15日))。
572年 - 王辰爾(わうじんに)、高句麗の上表文を解読する。高句麗の使人、帰国する(紀)。
574年 - 高句麗の使人、越に来着し、上京する。
574年 - 蘇我馬子を吉備に使わし、白猪屯倉(しらいのみやけ)と田部を充実させ、田部の名籍を白猪史胆津(いつ)に与える(紀)。
575年 - 新羅と任那に使いを送る。新羅、多々羅・須奈羅・和蛇・発鬼の四邑の調を献ずる(紀)。
576年 - 3月、敏達天皇、豊御食炊屋姫尊を皇后とする(紀)。
577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北(中国北部)を統一する。
577年 - 日祠部(ひのまつりべ)・私部(きさいちべ)を置く。百済に使いを遣わす。
577年 - 百済の威徳王、経綸と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を贈る(紀)。
578年 - 四天王寺建立のため、聖徳太子の命を受けて百済より三人の宮大工が招かれ、その宮大工の一人、金剛重光が「金剛組」を創業。
579年 – 新羅、調と仏像を贈る(紀)。
580年頃 - スラブ人が北ギリシアに侵入する。
580年 - 新羅、調を献ずるが、朝廷は拒否する。
581年 - 中国で楊堅が北周を滅ぼして隋を建国。
581年 - 蝦夷の首長、綾糟ら、朝廷への服属を誓う。
582年 - 新羅、調を献ずるが、朝廷は拒否する。
583年 - 突厥が東西に分裂する。
583年 - 任那復興のため、火葦北国造の子、日羅を百済より召喚する。
583年 - 蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る(元興寺縁起)。
584年 - 蘇我馬子が司馬達等の娘 善信尼ら三人を出家させる(日本最初の尼)。
584年 - 新羅に難波吉土木連子を遣わす。
585年 - 蘇我馬子、塔を大野丘の北に建て、盛大な法会を行う。物部守屋、塔・仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に捨てる。
585年 - 9月14日(敏達天皇14年8月15日) - 敏達天皇、死亡する。
585年 - 10月3日(敏達天皇14年9月5日) - 用明天皇が即位(在位 - 587年5月21日(用明天皇2年4月9日))。
586年 - 穴穂部皇子、物部守屋に三輪君逆を惨殺させる。
587年 - 用明天皇、病のため仏教に帰依せんことを群臣にはかる。
587年 - 物部守屋・中臣勝海は反対する。中臣勝海は殺され、物部守屋と蘇我馬子は、互いに兵を集めて対立。 
587年 - 蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす。
587年 - 9月9日(用明天皇2年8月2日) - 崇峻天皇が即位(在位 - 592年12月12日(崇峻天皇5年11月3日))。
588年 - 百済仏舎利を献じ、僧・寺工・画工や鑪盤博士、瓦博士等が来て最初の本格的伽藍、法興寺(飛鳥寺)を着工。
588年 - 蘇我馬子、善信尼らを百済に留学させる。
589年 - 中国で隋が南朝の陳を滅ぼし、中国を統一。
592年 - 隋で均田法を施行される。
592年 - 崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位。
593年 - 聖徳太子が摂政となる。
593年 - 聖徳太子が摂津国に四天王寺を創建。
593年 - 伝承によればこの年、厳島神社が創建。
596年 - 聖徳太子、病気療養のため道後温泉に滞在(伊予風土記)
598年 - 隋で初めての科挙が行われる。隋、高句麗遠征に失敗する。
600年 - 日本が遣隋使(第1回)を送る(『隋書』倭国伝に見えるが『日本書紀』に書かれていない)

うーん、相当にダイナミックな時代ですなぁ。
気になるのは聖徳太子の台頭と遣隋使の開始ですかね。
アジアでの地位を確保してきた日本がいつまでも「夷」と呼ばれるのを嫌ったとの説もあるようです。
あるいは「弘仁私記」にあったように「我(わ)」から来たのかもしれません。それも国力の増加とともに自国を主張したためなのでしょうか......。

さて、最後に一つだけ...
前出の「篆隷万象名義」編纂したのは

「東大寺沙門大僧都空毎水撰」
と画像中央に読めるでしょうか。
で『海』、つまり「弘法大師 空海」の作なのです。
空海は唐より「玉篇」を持ち帰り「篆隷万象名義」を編纂しました。
なぜ601年の「切韻」ではなく543年の「玉篇」だったのか?
それは「玉篇」がメジャーだったからでしょう。
朝鮮半島でも広く用いられ、崔世珍の『韻会玉篇』が編まれるなどしている。現在でも韓国では部首別漢字字典自体を指す言葉に「玉篇」(オッピョン、옥편)を使っているほどのメジャー辞書だったのです。
要するに弘法大師空海
「倭」の文字が「ワ」と読まれる以前「イ」と発音していたことを知っていたのです。

以上、追記でございました。

2015年11月1日日曜日

前置その2「大宜都比売は阿波の國魂」

さて、お願いします。
付いてきてくださいね。
これから数度、このような形の前置きを書いて、それから本題をまとめます。
訳がわかんないと思いますが、最後にはまとまる予定ですので、是非ともお付き合い願います。(そのくらい掛けないと、自分でも収拾がつかないのよ〜)

さてと、
前置その1「大宜都比売は二度死ぬ」に続いて
「大宜都比売は阿波の國魂」です。
まずは、これを見ていただきましょうか。
「名西郡鬼籠野村 郷土誌」




「備考 祭礼と兵乱」部より
一宮大粟神社の祭官は上古より殊に其神裔たる粟國造の下分上山村の國造本館にありて世々奉仕する特別の官にして之を宮主と唱へ相傳ふること神祖より三十四世國造家宗成に至りて時の豪族小笠原長宗に横奪せられ長宗一宮氏を冒して祭官に任せられ相傳ふること三世にして成行と云ふ成行の父成宗一宮城を築き移る是れより城主と祭官とを二分して其子に傳ふ長を成良とす代々城主を相傳して一之宮城に居り次を成直とす祭官を相續して神領村國造別館にありて祭職を務む之を一宮殿の祖とす一宮殿代々祭職を傳ふる又数世にして木屋平氏に滅せらる惜い哉一之宮殿の亡びて後祭官絶へて僅かに別當神宮寺と御供炊人なる阿部氏等の奉仕するのみとはなりて千古の盛典格式をして空しく其儀を失はしめ随て式内の大社をして空しく他の小社と相齋しからしむるに至る噫請ふ誠に口碑傳説の信すべき證在を列舉して其理を詳述せん
上一宮大粟神社の分靈を祭祀する名東郡上八万村大字一宮村一宮神社に傳はる阿波女社宮主祖系と題せる書あり上古より祭官たりし國造家三十四代世の人名を記し其末に「以祭事傳神禄附属祭官宮内大輔長宗」と書せり蓋し小笠原氏未だ一宮氏を冒さざる前に於て祭官職を得て祭官の傳來を記述せしものとす此書果して原本なるや將た一宮殿に藏する所のものを傳冩せしものなるやを知らずと雖も以て本社祭官の傳來を察知するに足る其書によれば祖神を阿波女神となしその始祖を若室神と為す若室神より天盤戸主神健豊神健忍方神多久理彦神八倉主神宇賀主神畠多神等数世の諸神相継き後を佐人と云ふ佐人より賀田彦、於志翁、屋那男、岩肩彦、豊長彦、里利夫、與理彦、田茂理、豊茂理、豊成、兼諸、経宗、忠成、忠宗、宗長、宗信、宗國、宗慶、宗堅、宗親、宗昌、宗時、宗行の二十余世を経て祖神より三十四世を國造家宗成と云ふ宗成に至り祭神を以て神録附属を祭官小笠原宮内大輔長宗に傳へしを知る即ち上古阿波女神の神裔代々國造家として祭官を奉せしこと暦然たり
以上の國造家が在往せしを國造本館と称し今尚上山村■■■に其館跡存せり上古より世々國造家の在往せし所と云ふ而して神領村に國造家別館なるものとあり即ち阿波風土記に國造館となせるもの之れなり


写真は「一宮神社」

さて、ここで「阿波女社宮主祖系」なる書名が記されております。
此の書大正四年(1915)時点では徳島市一宮町に鎮座まします「一宮神社」に所蔵されていた「はず」なんですが、残念ながら現在は伝えられていないとのことです。
で、神領村史などに残されている記載と前回「大宜都比売は二度死ぬ」にて少し紹介した「粟国造粟飯原家系図」とを比べてみることができます。
その結果としては、祖神は「粟国造粟飯原家系図」においては「大宜都比売神」、「阿波女社宮主祖系」においては「阿波女神」との記載が確認されております。
つまり阿波国においては「大宜都比売神」イコール「阿波女神」と伝承されてきたということです。

ではこの「阿波女神」聞きなれない、あるいは全く聞いたことのない神名だと思いますがこれは阿波国のみに見受けられる神名なんでしょうか?
大正元年発行の「大日本神名辞書(明治神社誌料編纂所 編)」を開いてそれらしい記述を探してみますれば。



「咩」は漢音では「ビ」と読みますが、国内では「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」や「乙咩神社(おとめじんじゃ)」などのように「メ」と読み、意味は「女(メ)」に同じですので、上記に示されております「阿波咩命」は「阿波女神」と同神だとお分かり頂けると思います。

つまり
「阿波女神」は
「阿波神」「阿波咩命」「阿波々能神」「阿波波神」「天津羽羽命」と同神であり、事代主神(八重事代主神)の后神であり、天石戸別命の御子であるとの解釈が一般的であろうと思われます。
ここを念頭に「粟国造粟飯原家系図」中「大宜都比売神」の部分を見ていただきますと

「積 羽八重事代主神」の后神で粟国魂、亦の名を「大阿波女神」「阿波女神」「阿波波神」「天津羽羽命」であり、「大日本神名辞書(明治神社誌料編纂所 編)」と同様の記述ですね。
その前後に、腰が抜けそうな記述がいくつかありますが(笑)、この時点ではとにかく
「大宜都比売神」は「積 羽八重事代主神」の后神で粟国魂、亦の名を「大阿波女神」「阿波女神」「阿波波神」「天津羽羽命」
と言うことで、よろしくお願いいたします。

ちなみに「名西郡鬼籠野村 郷土誌」の
以上の國造家が在往せしを國造本館と称し今尚上山村■■■に其館跡存せり
■■■の部分はあえて伏せてありますのでご容赦を(笑)

さあさあ、眉に唾つけなおして進行、進行〜。

2015年10月22日木曜日

前置その1「大宜都比売は二度死ぬ」

さて、お願いします。
付いてきてくださいね。
これから数度、このような形の前置きを書いて、それから本題をまとめます。
訳がわかんないと思いますが、最後にはまとまる予定ですので、是非ともお付き合い願います。(そのくらい掛けないと、自分でも収拾がつかないのよ〜)

さてと、
「大宜都比売は二度死ぬ」です。
いわゆる古事記に書かれるところの「オオゲツヒメ」は



オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、オオゲツヒメノカミ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれたとの記述がある。阿波国の名前が大宜都比売とされていることについては、阿波を穀物の「粟」に掛けただけの後附けともされるが、逆に穀物神の大宜都比売が祀られていた国であるからアワの国と呼ばれるようになったとする説もある。

高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭からが生まれ、目からが生まれ、耳からが生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部からが生まれ、尻から大豆が生まれた。 wikipediaより

とあります。
この「スサノオ」が「オオゲツヒメ」を斬り殺すところを古事記に求めますと

又食物乞大氣都比賣神。爾大氣都比賣。自鼻、口及尻。種種味物取出而。
種種作具而進時。速須佐之男命立伺其態。爲穢汚而奉進。乃殺其大宜津比賣
神。故所殺神於身生物者。於頭生蠶。於二月生稻種。於二耳生粟。於鼻生小豆。
於陰生麥。於尻生大豆。故是神産巣日御祖命。令取茲。成種。

そこでオホゲツ姫が鼻や口また尻しりから色々の御馳走を出して色々お料理をしてさし上げました。この時にスサノヲの命はそのしわざをのぞいて見て穢いことをして食べさせるとお思いになつて、そのオホゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身體に色々の物ができました。頭に蠶(かいこ)ができ、二つの目に稻種(いねだね)ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメが出來ました。カムムスビの命が、これをお取りになつて種となさいました。

この「古事記」の記載に対して「日本書紀」ではどう書かれているかと見れば、「オオゲツヒメ」は記載されておらず、「ツキヨミ」尊が「ウケモチ」神を斬り殺す話となっています。

既而天照大神 在於天上曰 聞葦原中國有保食神 宜爾月夜見尊 就候之 月夜見尊 受勅而降 已到于保食神許 保食神 乃廻首嚮國 則自口出飯 又嚮海 則鰭廣鰭狹亦自口出 又嚮山 則毛麁毛柔亦自口出 夫品物悉備 貯之百机而饗之 是時 月夜見尊 忿然作色曰 穢哉 鄙矣 寧可以口吐之物 敢養我乎 廼抜劒撃殺

天照大神はツクヨミに、葦原中国にいるウケモチという神を見てくるよう命じた。ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。

とあります。
見比べてみると、どうみても同じ内容。
ということは、まあ、「大氣都比賣神」と「保食神」は同一の神とみてもいいんでしょうね。他の方も、こう仰る方がたくさんおりますので(笑)

ならば

「速須佐之男命」と「月夜見尊」はどうなのか?

同一神なのか?
「そんなバカなことを言うんじゃない」って叱られるんですかね。

そこでお目にかけるのがは、代々上山村(現在の神山町)上分の庄屋を務めた粟飯原家に伝えられた「粟飯原家文書」中の「粟国造粟飯原家系図」翻刻図。
遠祖は粟国造であった粟凡直であると記されている、貴重文書です。
(誰かが、ボクが出さないと後出せないなんてほざいて仰っておりますので出しときます。別に止めてなんかないんですよぉ(笑))
右下のあたりを見ていただくと
通常は天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、素戔嗚尊(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたるとされている「月夜見命」がこの系図内では「建速須佐之男命」と同一とされています。
そして、その神は「粟国造粟凡直(あわのくにのみやつこ あわのおおしのあたい)」等は此の大神の御末系であるとされています。

さあ、眉に唾つけて出発進行!
只ではすませませんぜ(笑)
(次はいつになるかわかんないけどネ)

2015年9月11日金曜日

備忘録:「倭」はなんと読む?

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(西暦57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
『日本大百科全書』(小学館、1984年)「金印」の項では「1892年(明治25)三宅米吉により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である」としている。


つまりは「かんのわのなのこくおう」と読み、金印における「委奴」を『漢書』の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆)ているという。
もし「委」の文字が減筆でないならば、当然「イ」と読むのでしょうが、もし減筆であったとすれば「倭」の文字は建武中元2年(西暦57年)にはなんと発音されていたのでしょうか?

まずは「説文解字(せつもんかいじ)」なる文書を紐解いてみようではありませんか。


説文解字(せつもんかいじ、拼音: Shuōwén Jiězì)は、最古の部首別漢字字典。略して説文(せつもん、拼音: Shuōwén)ともいう。後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立し、建光元年(121年)に許慎の子の許沖が安帝に奉った。本文14篇・叙(序)1篇の15篇からなり、叙によれば小篆の見出し字9353字、重文(古文・籀文および他の異体字)1163字を収録する(現行本ではこれより少し字数が多い)。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを解説し、字の本義を記す。
wikipedia

この世界最古の漢字字典の清朝復刻版「倭」の項目を見れば

「順皃从人委聲詩曰周道倭遟 於為切」

「委」聲(声)つまり「委(イ)」の発音であると記載されています。

解説本である「說文解字注」にも
順皃。
倭與委義略同。委、隨也。隨、從也。廣韵作愼皃。乃梁時避諱所改耳。
つまり西暦100年頃には「倭」と「委」の発音は同じ委声。為(ヰ)の(反)切。であるから音は「ヰ」、カタカナ表記ならば「イ」(厳密には「イ」と「ヰ」は少し発音が違いますが)。

大枠の発音としては「イ」であり「ワ」の発音は記載されておりません。
ここまでいいですか?

続いて時代を下って「切韻」(せついん)をみてまいります。
『切韻』(せついん)とは、隋文帝仁寿元年(601年)の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐代、科挙の作詩のために広く読まれた。最初は193韻の韻目が立てられていた。


上田正 『切韻逸文の研究』 汲古書院、1984年。

「切韻」(せついん)については、良い画像がなかったのですが、下記に表示した『切韻逸文の研究』はトルファン出土の『切韻断簡』等を徹底的に収集した大労作であり、ここから引用させていただきますと。

「韻書曰倭烏禾切....」
と記載されています。

では、この「烏禾切」(烏禾と発音)をどう読むか。
以前に紹介した「臺灣大學中國文學系和中央研究院」の「漢字古今音資料庫」より検索してみます。
「烏」は当然「u」(ウ)音。
「禾」は、なんと「wa」と発音します。
つまり「烏」(u)「禾」(wa)で(uwa)との発音、カタカナ表記ならば「ワ」ですね。
西暦601年時点の発音は「倭」は「ワ」なのです。
永元12年(西暦100年)から仁寿元年(西暦601年)の間に「倭」の発音が「イ」から「ワ」に変化しているのです。

ついでというか、念のため後世の韻書を参照して確認しておこうじゃないですか。

では「集韻」(しゅういん)なる韻書を見てみましょう。
ちなみに「韻書(いんしょ)」というのは
韻書(いんしょ)とは、漢字を韻によって分類した書物。元来、詩や詞、曲といった韻文を作る際に押韻可能な字を調べるために用いられたものであるが、音韻は押韻の必要以上に細かく分類されており、字義も記されているので、字書などの辞典のもつ役割も果たした。wikipedia

だそうでして、漢字はとかく表意文字だと思われておりますが、表音文字としての側面も濃く、このような韻書によって当時の発音を確かめることもできちゃうんですねぇ。
で、
集韻(しゅういん)とは、宋代に作られた韻書の一つ。景祐6年(1039年)丁度らによって作られた勅撰の韻書である。平声4巻・上声2巻・去声2巻・入声2巻の全10巻。





前に掲示した「切韻」(せついん)と同じく「烏禾切」と表記され。発音は「ワ」であることが確認されます。
「イ」の発音は見られません。

では最後に「広韻(こういん)」を。
広韻(こういん)は、北宋の大中祥符元年(1008年)陳彭年(ちんほうねん)らが、先行する『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書。正式名称は大宋重修広韻。





 上下に分かれて見にくいので囲ってみました。
これは「烏戈切」と表記されています。
発音をまたもや「漢字古今音資料庫」で確認いたします。

「戈」は「wa」との発音です。
「烏(u)戈(wa)」で、やはり発音は「ワ」となってしまってます。

西暦100年  「説文解字」(発音「イ」)
   この間に発音の変化があった。
西暦601年  「切韻」  (発音「ワ」)
西暦1008年 「広韻」  (発音「ワ」)
西暦1039年 「集韻」  (発音「ワ」)
ということですね。
ちなみに
中国の言語学者である李恕豪も『揚雄《方言》與方言地理学研究』(巴蜀書社、2003年)の中で『漢書地理志』の「音聲不同」、『説文解字叙』の「言語異聲」、『経典釈文』の「楚夏聲異、南北語殊」「方言差別、固自不同、河北江南、最為鉅異」など、殷周以来の方言の実在性に着目し、秦晋方言区から呉越方言区まで12の方言区について詳説しており、久米と同様、金印問題を考えるのに「方言論」的視座が不可欠であることを示唆している。
などの指摘もありますが、国司が、朝見国に与える国璽ともいうべき金印に方言なんて使うのかと、素人でも疑問が沸き起こるような指摘は如何なものかと。
どうでしょうか?

では、何が原因で発音が変化したのでしょうか。
ヒントは日本書紀私記、いわゆる「弘仁私記」にありました。



弘仁私記序文より
夫日本書紀者 日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云山跡。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。

「訳文」
それ日本書紀は、日本国、大唐より東に去ること一万余里なり。日、東方より出るに、扶桑を昇る。故に日本(ひのもと)と云う。古くはこれを倭国(ワコク)という。ただ「倭(ワ)」の意味は未詳。あるひと曰く、我(わ)という音を取り、漢人が名づけたる字なりと。かよいて、山跡(やまと)という。山、これを耶麻(やま)という。跡、これを止(と)という。(止の)音は登 - 戸の反し。下も同じ。それ天地二つにわかれたるとき、泥がしめって、未だかわかず。これをもって山にすみ、往来すれば、もとより自ずと足あと多し。故に邪麻止(やまと)という。また古語に居住をいうに、止(と)を言(こと)になす。山に住むなり。(止の)音は上に同じ。
武玄之曰く、東海の女国なりと。

推測するに、倭人が自分たちの国のことを「ワ」の国と呼んでいたので、漢人が「倭」と記載されてところを、読み方については、もともと「イ」の読み方であったのを「ワ」と変えてしまったということなのでしょうか。
その後の記載も非常に興味深いのですが、この記事ではここまでとさせていただきます。



2015年5月6日水曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(6)追記

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(5)
の追記です。
連休中に書き上げとこうと思いましたとさ(笑)

1. 勘注系図と阿波との関係
海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。

と言うことで、どうして丹後、海部氏の系図と阿波が関係あるんじゃい、と仰るでしょうが、この系図、第14世までは『旧事本紀』の「尾張氏系図」と共通する神・人名が見られることはよく知られております。
そして、松浦長年による「阿波國続風土記起稿」において「凡直(おおしのあたい)」「粟凡直(あわのおおしのあたい)」や「海部氏」は海神にゆかりがあり、「尾張連(おわりのむらじ)」「凡海連(おおしあまのむらじ)」「安曇連(あずみのむらじ)」と同祖であると断定しております。
無論、「阿波國続風土記」を脱稿した際、籠神社の「勘注系図」の存在を知らなかったであろうことは想像に難くありません。
にもかかわらず、この記載。

継体天皇御巻は、まだ確認しておりませんが、「粟凡直(あわのおおしのあたい)」「海部氏」、「尾張連(おわりのむらじ)」「凡海連(おおしあまのむらじ)」「安曇連(あずみのむらじ)」が同祖ならば
「仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)」
の内容にも多少なりと信憑性が増そうというものでしょう(笑)

2. 「開化天皇」について
まあ、これはこじつけですけど(笑)和風諡号の「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、「若倭根子日子大毘毘命」はともかく「開化」天皇って「開いて」「化した」ってことですよね。
卑弥呼=天照大御神ならば天岩戸が開いて、男王が天皇と化し.....いや、うまく当てはまりすぎでしょう(笑)

3. 崇神天皇について
開化天皇の御子「崇神天皇」が「神武天皇」と同一人物であるとか、初代天皇ではないかとの説がありますが、ワタクシはそう思いません。
欠史八代の天皇もなんらかの形で実在したと思っております。

日本書紀 崇神天皇条
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」
即位4年冬10月23日。天皇は言いました。 

「わたしの皇祖や諸天皇たちが宸極(アマツヒツギ=皇位のこと)についたのは、自身のためであろうわけがない。人神が増えるように整え、天下を治めるためです。奥の深い仕事をして、徳を広めよう。今、私は大運(アマツヒツギ=皇位)を受け、黎元(オオミタカラ)を愛で育もう。こうしてついに皇祖の跡に従って、長く終わりの無い祚(アマツヒツギ=天から正統な支配権)を保とう。群卿百僚(マヘツキミタチモモノツカサ=多くの氏族と多くの役人)、彼らの忠貞をつくし、共に天下を安らかにしていこう」

初代天皇が「皇祖」とか「諸天皇」とかは言わないと思います(笑)。

以上、追記でしたが、まだ何かあったら追記いたします(笑)。

2015年5月5日火曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(5)

前回までの記事をご覧でない方は

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)

を読んでいただいてないと、今回の説明が何が何だかわからないと思いますので、できれば読んで帰ってきてくださいませ(無理にとは言いませんがwww)。

まとめに入る前に一言だけ書いておきます。
歴史というものは、記録した人、それを見る人の主観で全く変わってくるものです。
いかに客観的に見ているつもりでも記録した人の立場によって記載方法は変わってくるし、現代の我々が見る歴史と、江戸時代、それ以前の人の見る歴史感は似ても似つかぬものであることは異議を挟む余地もないでしょう。
そういう前提に立ち、史書を解釈することは、仮定の連続でありますが、一つの仮定の破綻がすべての説の破綻につながるものではないことを理解しておいて欲しいと思います。



仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)
での系図を簡略化したものが上図です。
そして下のリンクは多分台湾の方が作られた「三国人物」というサイトですが、このサイトの「壹與」の部分を見てみますと

別にどこのサイトに書かれているから正しいとか、正しくないとかの話ではなく、ごく普通に「壹與」についてこのように書かれています。

魏末晉初時代的倭女王,也曾受封「親魏倭王」。年僅十三歲時,因其出身被推舉為女王,帶領動亂中的日本北九州「邪馬台(日向)國」走向穩定,與魏、晉先後建立起外交關係。她是邪馬台國第五位,同時也是末位國王,更是繼第一任女王「卑彌呼」之後的第二位女王。
壹與(Iyo,日本方面也寫成「臺與」Toyo),原名為「豐受」(ToyoUke),公元234年出生於邪馬台國首府西都原(今日本宮崎縣西都市)。壹與是北九州「邪馬台國」日向族王位繼承人神倭「伊波禮彥」與南九州狗奴國球磨族(隼人族)貴族之女「阿比良」公主所生的獨生女。依輩份來算,壹與是邪馬台國第一位女王「卑彌呼」(HiMiKo)的曾孫。

壹與(Iyo,日本方面也寫成「臺與」Toyo)を日本方面で写して壹與(Iyo)と成し、「壹與」の原名を「豐受」(ToyoUke)と為す。

卑弥呼を受け継ぐ「壹與」は「豐受」なのですね。
建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」は「豊受姫 荒魂命」なのですね。
では仮に「大倭姫命」こと「豊受姫」が「壹與」であり「豐受」であれば王位を引き継いだ「大倭姫」こと「竹野姫」また「日女命」と呼ばれる方は、先代「卑弥呼」そのものであるのではないでしょうか。
そして「竹野姫」は「開化天皇」の妃であり「日女命」であるのです。
この「日女命」、似たような名をどこかで見ませんでしたか?
「皇室より大明神の号を頂 日ノ命大明神と称しました」
考えてみてください「伊加賀色許賣命 」の呼び名は人名じゃないでしょう「伊加々志」一族の女性を現す呼称にしか見えず「伊加賀色許雄命 」は「伊加々志」一族の男性を現す呼称にしか見えません。
魏志倭人伝には「卑弥呼」には夫がいず弟がいたとの記載もあり、一致しないのではとの意見もあるでしょうが、屁理屈をこねれば、この「卑弥呼」は「大倭姫」こと「竹野姫」とする「卑弥呼」ではないのでは、あるいはさらに先代の、三国史記に現れる「卑弥呼」あるいは、史書に現れていない「卑弥呼」である可能性もあるのです。
そして、さらに「竹野姫」である先代「卑弥呼」の夫が「開化天皇」であることを仮定として認めるならば
で書いたように
「 開化天皇」は「卑弥呼」の跡を継いだ男王であり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)であるのです。
ならば
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』に言う
『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』
時に男王は臺與と共に海を渡り、朝見を果たします。
で書いたように日本海ルート

拠点となる丹後半島には「宮中八神殿」で書いた阿波の天石門別八倉比売神社と同神であると言われる大宮売神を祀る「大宮売神社(おおみやめじんじゃ) 」が存在し、

「仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)」で書いた、長野工学博士が提唱する、日本海ルートから若狭に至り、船を曳き、「船越」を越え琵琶湖経由で大阪湾に出るコースで帰還が可能となるのです。

 誰が帰るのか?
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いそたけるのかみ)と卑彌呼宗女「臺與」が帰るのです。
拠点には「五十猛神」も祀られています。
 新羅からも晋からも、このコースで帰ることが可能なのです。
何処へ帰るのか?
少なくとも五十猛神(いそたけるのかみ)は『「木国の大屋毘古神」まとめ』で書いた自分の本拠地に帰ったであろうことです。

一応、纏めたつもりですが、追記があるかもしれません。すぐではないでしょうが...




2015年5月4日月曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
それでは 海部氏勘注系図を見ていこうと思いますが、ちょっとだけレクチャーを。

海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。
ともに古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、昭和50年(1975年)6月に重要文化財、翌51年(1976年)6月に国宝の指定を受けた。

「本系図」は、現存する日本の古系図としては、同じく国宝である『円珍俗姓系図』(「智証大師関係文書典籍」の1つで、「和気氏系図」とも呼ばれる)に次ぐもので[2]、竪系図の形式を採っていることから、系図の古態を最もよく伝える稀有の遺品とされている。 wikipediaより

以下に記載する項目は他のサイトにも同様の記載が見受けられます。

邪馬台国と卑弥呼の謎を解く!海部氏系図に隠された謎
日本建国史 第三章 倭人伝と日本書紀の接点『勘注系図』が明かす卑弥呼と台与

この辺、先に書かれている方がいらっしゃるのを承知の上ですので。

さて、この「勘注系図」には二人の「大倭姫(おおやまとひめ)」が記載されています。

一人は始祖である天火明命の六世孫の「宇那比姫(うなびひめ)」別名として「天造日女命(あまつくるひめみこと)」「大倭姫(おおやまとひめ)」「竹野姫(たかのひめ)」「大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)」「日女命(ひめみこと)」。

もう一人は七世孫建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」
桂川光和氏の説によれば

『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。
この女性は天皇と同格の、大倭(おおやまと)の名前を持つ。
大倭とは古い時代「大和朝廷」が支配した国の名である。「大倭」が「大和」となり、後に「日本」となる。大倭姫は大和朝廷の女王の名である。

確かに「大倭」の名を関する女性を見かけたことが無いような気もしますが、そのあたりの検証はできておりませんので、参考程度としたいと思います。
以下「勘注系図」図面は「神道大系」より「海部氏系図翻刻図」より
確かに
「宇那比姫(うなびひめ)命」亦名天造日女命 六世孫大倭姫 一伝、竹野姫 亦伝、大海靈姫命 亦伝、日女命 云々と記載されております。
ここに出てくる「竹野姫」の名、これが本当ならば


父は第8代孝元天皇。母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)[4]。
第二子であり、同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。
妻子は次の通り。
皇后:伊香色謎命 (いかがしこめのみこと) - 元は孝元天皇の妃。
第二皇子:御間城入彦五十瓊殖尊 (みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) - 第10代崇神天皇。
皇女:御真津比売命 (みまつひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。
妃:丹波竹野媛 (たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。
第一皇子:彦湯産隅命 (ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)
妃:姥津媛 (ははつひめ、意祁都比売命) - 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
第三皇子:彦坐王 (ひこいますのみこ、日子坐王)
妃:鸇比売 (わしひめ) - 葛城垂見宿禰の娘。
皇子:建豊波豆羅和気王 (たけとよはづらわけのみこ:古事記) - 日本書紀なし。
wikipediaより
上の記載は「開化天皇」の系譜について書かれた部分です。

なんと「開化天皇」の妃であった「丹波竹野媛 (たにわのたかのひめ、竹野比売)」のこととなるのです。
そして、この「宇那比姫(うなびひめ)命」亦名天造日女命 六世孫大倭姫 一伝、竹野姫 亦伝、大海靈姫命 亦伝、日女命と呼ばれる方が「卑弥呼」ではないかというのです。
確かに「卑弥呼」は「日女命」と通じます。
では、仮に「大倭姫 一伝、竹野姫」が卑弥呼であったといたしましょう。
そして、七世孫建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」の部分を参照いたしましょう、すると
拡大しましょう
説明が要りますか?
  一云 豊受姫 荒魂命
  一云 大宜都日女命
伊勢神宮外宮に奉祀される豊受大神の荒魂であり、大宜都比売神のことであるとの記載です。
卑弥呼の次代を受けた「臺輿(トヨ)」が「豊受姫」として当てはまってしまうのです。

ちょっと短いですけど、これで材料は出揃いました。
次回でまとめてみますが、大体言いたいことは分かっていただけたのではないでしょうか。


続く

2015年5月3日日曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)

前回までの
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
を読んでからの方がいいような気もしますが、気が向いたらでも結構です(笑)。
さて、今回も脈絡なく「魏志倭人伝」の引用から始めます。

言わずと知れた「卑弥呼」大夫難升米等を遣わし、朝献させた部分です。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

 正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。
その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。
壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

この部分で始めて「卑弥呼」の名前が中国の国史に出てくるのですが、これが景初二年六月ということで西暦ならば238年のこと。

この「卑弥呼」の正体(笑)についてはご存知の通りいくつもの説があり、いくつかを列挙すれば
1. 天照大御神説
2. 神功皇后説
3. 倭迹迹日百襲姫命説
4. 倭姫説
5. 甕依姫説
6. 卑弥呼機関説
7. 九州の巫女王説
8. 出雲族説
9. 外国人説
「ここまでわかった! 卑弥呼の正体」(新人物文庫)より。
などがあるようです。
詳しい説明を書く余裕もありませんが「神功皇后説」などは年代の操作がない限り時代が合いません。

そこで、朝鮮半島の歴史を記した酷暑である「三国史記」の「新羅本記」を参照すれば、この景初二年六月(西暦239年)に遡ること65年「卑弥呼」の記載が現れているのです。
阿達羅尼師今二十年(173年)五月
「二十年五月倭女王卑弥呼遣使来聘」
これはどういうことなのでしょうか?
卑弥呼が65歳以上80歳とか90歳とかの高齢を保って、倭国王の地位を守っていたのでしょうか?
誰でもそうじゃないと思いますよね、真っ当に考えれば「卑弥呼」というのは一人の人間のことではなく倭国女王の地位であるとか、階位、あるいは尊称であった可能性が高いのではないでしょうか。
もう一点「魏志倭人伝」に下記の記載があります。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 

「名付けて卑弥呼という」、解説するまでもなく「卑弥呼」と「名付けられた」のです。
つまり卑弥呼は一人ではなく世襲によって受け継がれてきた地位であることが言いたいのです。
そして
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

とありますように、男王をはさんでおりますが、先代卑弥呼と次代卑弥呼(壱与:実は「トヨ」が正式なんですが一般的に書かれているケースが多い「壱与」をここでは使います)との間で王位の継承があった、少なくとも次代が女性であったとの記録が欲しいと思います。
その点で言えば「倭迹迹日百襲姫命」「倭姫」などはちょっと疑問に思えてくるのです。
「天照大御神説」について言えば、「天照大御神」というのが尊称であるという前提に立てば「あり」ではないでしょうか。王位の継承は誰にされたのかと問われれば
「宮中八神殿」で書かせてもらいました「大宮売神(おおみやのめのかみ)」と答えさせていただきましょう。
ただ「大宮売神」というだけでは全く具体性に欠けますので、もう少し具体的な名を出してみれば、例によって(何がwww)勘注系図(海部氏系図)を出してみたいと思います。

海部氏勘注系図は上図(一部)のように系図が縦長に延々と続いており、原本も一部しか公開されておりませんが、手書きの系図を見ること、甚だしく困難なので、翻刻図(神道体系より)を使用させていただきます。
が、前提としてもう一点(いや二点)を挙げておきますので、ここは注意しておいてください(テストには出ませんけどwww)

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』は
『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』
とする。
臺與が王位に立てられた後、男王が立ち、中国王朝の爵位を受けたという記述です。

また801年成立の『通典(つうてん)』でも
『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』
として同様な記述を残しております。
「晉武帝太始初」頃のことであるから泰始元年から二年(西暦265年から266年)頃に、男王が臺與と一緒に西晋の爵位を受けたと見えます。

ちょっと長くなりすぎたので、続く....