2016年1月31日日曜日

前置その4「大宜都比売命と埴生女屋神と丹生都比売大神」(上)

前回「前置その3『上一宮大粟神社古傳書及御神号改正願稿』」
にて明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改められたが、明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大粟神社に確定された件について書きました。
また、大粟一族によって「上一宮大明神」より「埴生女屋神社」と社名が変更されたことは誤りであるとの反駁文が提出されたことについても記載致しました。

では、「埴生女屋神社」あるいは「埴生女屋神」とは何なのでしょうか。
前置きとして「埴生女屋神社」は明治3年に埴生女屋神社と改められましたが、「埴生女屋神社」という社名は国史見在社でもなんでもないということです。
(注)「国史見在社」:六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載があるが、『延喜式神名帳』に記載がない神社をいう。
上手「延喜式神名帳」名方郡の部にも記載はなく、六国史にも「埴生女屋神社」としての記載はありません。
これは、後にも説明しますが、出て来るのは「日本三代實録」の四十四巻、元慶七年(883年)12月28日条。
「阿波國従五位下埴生女屋神」つまり「埴生女屋神」に対して階位が与えられたわけで「埴生女屋神社」ではない。
あるいは「埴生女屋神社」は存在しなかった可能性もあるのです。
なぜ、「上一宮大明神」を「埴生女屋神社」に改名しようとした理由は、まずこの辺りにあるのかもしれません。
入田は和名抄にも記載のある「埴土(はに)郷」でもあり埴生女屋神の出自としてふさわしいように見受けられます。
では、元慶七年(883年)12月28日に階位を受けたのはどこの神社か?
阿波國にはもう一つ「埴生女屋神」を祀ると伝えられる神社の存在するのはご存知の通り。
小松島市中田町に鎮座まします
「建島女祖命神社」

延喜式内社であり上記由緒書きには
建島女祖命神社由緒
祭神は,「タツシマメオヤノミコト」で氏子は「タツシマハン」と呼んでいる。
また、諸誌によると883年従五位上の「埴生女屋神」とあり、「建島女祖命下照姫」を祭るとある。
また、下照姫は「建御名方神の妹」諏訪の神であると言われ、これから「建島」と呼ばれると言われる。姥島神社の歴史は古くからあり、諾説の中で伝えられ今日に至っている。
諸誌の伝えるところによると、建島女祖命神社はこの地の開拓神として祭られたのであろう。建島女祖命を主神とし、応神天皇を合祀された。また「埴安比売命」とし、飛び地開拓の神としている。また「建島埴生女屋神」としている。また、「建島女祖命下照姫」とし、また「沖津比女命」、または女祖神として「伊邪郡美命」を祭るとある。
また、中田西八幡神社を合祀したものとある。(明治42年)
創立年代は不詳であるが、三代実録元慶7年12月28日(883年)に從五位「埴生女屋神」に従五位上を授けるとある。
祭祀は 例祭 10月10日
    夏祭 7月10日
建島女祖命神社は、細川家より神地を奇進され、また、その後の藩主の信仰あつく寄進があった。
延喜式小社で、全国で一社である。

とある。
御祭神として埴安姫とする説と下照姫とする説が存在するが、
滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する波爾布神社(はにふじんじゃ)神社は、往古より彌都波乃賣命(みつはのめみこと)を祀っていたが、天平13年(741年)に阿波国勝浦郡の建嶋女祖命神社より波爾山比賣命を勧請し、水の神、土の神の二神を揃えたと伝えられている。延喜式神名帳に記載されている式内社である。木津荘の惣社である。



「小松島市 建島女祖命神社」(あ、これはアカン人のページやないかいwww)
どうもこれはイケナイ人のページのようなので(笑)念のため「波爾布神社」の由緒書きを貼っておきます。
他の人のサイトで「那賀郡」って書いてある人がいますけど正しくは「勝浦郡」です。


天平13年(741年)に建島女祖命神社より「埴生女屋神」あるいは「埴安神」を勧請していることより、御祭神は「埴生女屋神」と推測するのが順当だと思われます。
そして、元慶七年(883年)に階位を「埴生女屋神」に与えられていることより、この当時は「埴生女屋神」所在は、建島女祖命神社とされていたのでしょう。

話が少々逸れてしまいました。
つまり阿波國造一族大粟氏の守る「一宮明神」→「田ノ口大明神」→「大粟上一宮大明神」→「上一宮大明神」と変遷される社名の系譜に「埴生女屋神」は出てこないのです。
 念のため「一宮大明神」の御祭神と宮主の系譜を確認しておきましょう。






ご覧の通り、「埴生女屋神」に繋がる形跡は見受けられません。

これを持って大粟氏は社名御改正願いに臨むわけですが....
ちょっと脇道に逸れ過ぎてしまいました(笑)
タイトルの「大宜都比売命と埴生女屋神と丹生都比売大神」
「大宜都比売命と埴生女屋神...」まではなんとかたどり着いたようですが、残りの「丹生都比売大神」。
ちょっとページが伸びすぎたようです。
「前置き」のくせに上下編に分けさせていただきます(笑)

それにしても最近は1日半かかって、これだけしか書けないんですよぉ〜。
ジジイになるのは辛いもんですねぇ。
(下編に続く)

2016年1月23日土曜日

宅宮神社の元社地を探せ!(たかな?)

注意! 今回は史料がどっかに行っちゃって中途半端です(いつもだって言うなよ~)。
いろいろ差し引いてお読みください。


宅宮神社略記
御祭神   大苫邊尊(おほとまべのみこと)
        大年大神(おほとしのおほかみ)
        雅武彦命(わかたけひこのみこと)
由緒
一、 千数百年以前より意富門麻比売神社と奉称された 式内社にして現在地の南方約二丁余(上八万小学校西南) 山間の堂と稱されし平坦地に鎮座す

一、 天正年間長曽我部元親阿波国攻入の際兵火により 社殿焼失す 兵乱鎮まりて後神林地の現在地に 社殿を建立しその時より宅宮大明神として奉斎された 日本唯一の家宅の守護神なり

一、 寛保元年三月雅武彦命の御神体を勧請せり

祭典神事
一、 大御神楽祭 旧二月一日
一、 例大祭 十一月三日
一、 神踊 八月十六日
(徳島市指定重要文化財)




また、延喜式内社の意富門麻比売神社である。中世に至り現在地の神林地に奉斎し、社名を宅宮神社と改称して家宅の祖神とした。大苫辺尊は家宅の神とされているが、『古事記』では伊耶那岐・伊耶那美の神より先に誕生している。神代七代の神の一である。

「平成祭礼データ」には

宅宮神社略記
 当社は、もと意富門麻比売(おおとまひめ)神社として奉称された。国司崇敬の延喜式内神社にして、藩政時代にも蜂須賀公の崇敬篤く、阿波、淡路両国への配札御免宿船渡の御三判を御下付給わり、両国一円に御神符を配札していた。戦国時代に兵火に災い、社殿を消失したが、兵乱鎮まりて後、神林地に再建し、祭神大苫邊尊が家宅の祖神であることから宅宮神社と改称された。 
 主祭神は天神五代の大苫邊尊であり全国で一座のみ当社に御鎮座され、家屋の守護神として古くより家相、方位、新築、増改築、土地造成、鬼門ぎり等の諸祈願やお祓は広く県内外に知られる。 寛保元年三月、吉田殿の命により稚武彦命を勧請した。 
 尚、当神社には神代文字による祓詞を彫造した古版木のほか第十四代藩主蜂須賀茂韶公の揮毫による御神名額を今に保存する由緒の古社である。

と記載されている。

当社の御祭神について「神名帳考証」などを見てみると、「大戸惑女(おおとまひめ)」あるいは、「大戸比賣(おおとひめ)」となっており、「古事記」において、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神々の中に、 大戸惑子神と大戸惑女神がおります。

まあ、今回ややこしいことは置いといて
由緒の記述から元地を探してみようかなってことでございます。
まず、本当におおざっぱに半径500m地点を区切りそのなかで、ポイントを絞ろうというわけです。


で、引っかかったのが「樋口遺跡」および「樋口(ついぐち)古墳」。


上八万小学校のすぐ東側にあったのが「樋口遺跡」ですがもちろんここではありません。
本命は「樋口古墳」。
なのですが、言っておきたいのが

元社地が東南500メートル地点にあったという記録の出展がどこかへ行ってしまいました。

えーえー、なんとでも言ってください。
妄想で探してるとか、夢見ながら探してるとか、何といわれても結構ですよ~(笑)
とにかく「樋口古墳」をさがしたんじゃあぁぁぁぁぁ...................


場所は「樋口バス停」の「上」(笑)ですが、ふつーに行くことは決してお勧めしません。
「危険」があぶないでございます(笑)、いろんな意味で。

「樋口古墳」一号墓石標

一号墓入口

大きさは人が屈むとこの程度


 中は結構高くて立って歩ける程度です


 中から出口を見たところ


二号墓入口


 二号墓天井(露で光っている)

 這いずり出てくる変なおっさん。

ちなみに工事用の皮手袋履いてますが、近辺に群生する荊(いばら)のトゲの前には効果があまりありませんでした。
帰って脱いでみたら、けっこう血まみれ(笑)。
上着はこれも業務用なんで大した被害はありませんでしたが、注意しないと「えらいこと」になりますよぉぉぉ(と脅してみる)。

で、もしかしたらここが「宅宮神社」元地かなと思ってるんですが、先に書いたように「史料がどっか行った」んで、わかんない~っす(笑)



まあ、それだけ書いて終わったんでは皆様納得がいかないでしょうから(笑)
神社由緒書きにある「旧社地」をご紹介しておきます。


 ここは畑の中を通るんで、マジ場所を明記できないんです。

 ここも民家近くなんで、場所を書けないのが残念です。

というわけで、ひじょーにちゅーと半端なんですが、ここまでのご紹介とさせていただきます。
へっへっへっ。

2016年1月13日水曜日

前置その3「上一宮大粟神社古傳書及御神号改正願稿」

上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は、徳島県名西郡神山町にある神社。式内社(名神大社)・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ。旧社格は郷社。新四国曼荼羅霊場第七十三番札所。wikipediaより


御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
おおげつひめのみこと 又の御名
御祭神 大宜都比売命 天石門別八倉比売命
大粟比売命
御例祭 歳旦祭(一月一日)
例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
新嘗祭(十二月十一日)
一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀 養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に 位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造 を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成 に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮 大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮 神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
                             撰 宮司 阿部千二
                             氏子会
                             大粟山保勝会

境内 案内書より

さて由緒にある「明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改められた」時、最も憤ったのが大宜都比売命の系譜を自負する「大粟氏」一族と上一宮大粟神社氏子一同でありました。

「大粟氏」の手による「大粟比賣尊考證」によれば、一族が祀る「大宜都比売命」こと「大粟比賣」は
「高皇産霊尊御子にて粟国造粟凡直等之遠祖也」
つまり「粟国造粟凡直 」の末裔である「大粟」一族は「高皇産霊尊」の系譜であると宣言しているのです。
詳しくは次回以降に記述いたしますが、「大宜都比賣命」は断じて「埴生女屋命」ではないとの主張により、県知事への直訴に至ります。
その次第が詳述されたのが
「上一宮大粟神社古傳書及御神号改正願稿」
であるのです。
表紙には明治25年とあります。
この稿を以って直訴に至るのです。


 そして延々と続く氏子の記名



宛名は「徳島県知事村上義雄殿」と記名。

さらにはこの請願書には、一族の出自を詳細に記した史料及び反駁文が添付されます。

「杉尾明神非八倉比賣神社辨」
「杉尾明神」は「八倉比賣神社」ではないとの見出しより始まり
「神名改正なりしは如何なる考証か知らず」と叫ぶがごとき反駁が記されております。


 別途「大粟氏」の手による「上一宮大粟神社口碑傳説考」にも下図のように
「上一宮大明神を埴生女屋神と非る事を知ると足れり」ともあります。

 詳細については、後述致しますが、自らの出自を否定する、県による社名の変更に対するため、膨大な史料を提出しております。
その内容により我々は、「上一宮大粟神社」と「大宜都比賣命」の真実を知る事となるのです。
また、「大粟氏」のみならず、同じく「粟国造粟凡直」の一統である神山「粟飯原氏」の系統を示す事によりさらなる事実が明らかになる(かもしれない(笑))。
(ここで落とすかって?笑笑笑笑笑)
ただし「粟飯原氏」の系統に偽りはなく「名東郡下分上山村史付録」にも
「粟飯原氏に曰く大宜津比賣命に粟飯を炊き神供と為せしより粟飯原の氏を冒せりと、其三日月と称する起因は大祖月読尊に繋る傳説にして三日月家一族のものは古来より...」
云々の伝承を以って「月読尊」の裔である事を示しております。
さて、
.
.
.
「えらいこっちゃあ〜ぁぁぁぁぁ」
ワタクシめなどの手に負えないではありませんかぁぁぁぁぁ。
一応続いたりしますが、あとは「awa-otoko」さんに任せようではありませんか。
へっへっへっへっ.......



2016年1月9日土曜日

大日寺の開基は?

今回はちょっと趣向を変えて札所のお話など。

大日寺(だいにちじ)は、徳島県徳島市一宮町に位置する寺院。四国八十八箇所霊場第十三番、四国三十三観音霊場第五番札所。大栗山(おおぐりざん)、花蔵院(けぞういん)と号す。宗派は真言宗大覚寺派、本尊は十一面観音。

場所はここですが、出すまでもないっすよね。





江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。
ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。

つまり江戸時代には、今の位置でなく道路向かいの(現)一宮神社境内にあったということです。


「四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)」も確認してみましょう。

最近はこんなマイナー本も復刻してくれるんでありがたいですのぉ~。

十三番 一宮寺(いちのみやじ) 平地 東向き、名東郡

と載っております。
つまり一宮神社と一体であったわけですね(場所が)。

では、開基はといいますと、

弘仁六年(八一五)、弘法大師が入田町海見の「大師が森」に堂を結び、護摩修法をされているとき、大日如来が紫雲とともに現れ「この地は霊地なれば一宇を建立すべし」と告げられた。
大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。

という寺伝のようです。
この海見の「大師が森」を探してまいりました。
「海見」は現在の字名でいえば「海見」です。
狭い道なんでうろうろして、嫌われながら探しました。
(多分(笑))ここでしょう。

山際をほんのちょっとだけ覗くと

ああぁ...そうですか、登れと仰るのですね。
この腰砕けのオヤジに(笑)



やっぱ、ここっぽいですね。
詳しい場所は、民家の隣だし、駐車する場所もないし、お墓もありますので書きません(ごめんなさい)。
でもカワイイ女の子になら喜んで教えますので、直接尋ねてください(うわぁ、オヤジ)。
まあ、あそこらをうろついてたら分ったり分らなかったりするんですけどね。


次回はみんな(とある一部の人か?)に書け書けと急かされてますので、そこらを書くつもりです(笑)