2016年5月15日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(1)

んーと、5月14日に話をさせていただいたんですけど、内容の動画などが公開できない状況になっておりますので、当日の説明と「前置」で何回か書いたものに追記して「まとめ」とさせていただこうと目論んでおります。
で、タイトルを「まとめ:大宜都比売命の裔」とさせていただきます。

で、今回の(1)は上一宮大粟神社の祭祀を執り行っていた祭官一族が取って代わられた下りとなります。
まず、上一宮大粟神社の縁起を再確認いたしますと。
上一宮大粟神社 御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
又の御名
御祭神 大宜都比売命 又の御名 天石門別八倉比売命、大粟比売命
御例祭 歳旦祭(一月一日)
例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
新嘗祭(十二月十一日)
一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
撰 宮司 阿部千二
     氏子会
     大粟山保勝会

そしてもう一度鬼籠野(おろの)村郷土誌の記載を。



「備考 祭礼と兵乱」部より
一宮大粟神社の祭官は上古より殊に其神裔たる粟國造の下分上山村の國造本館にありて世々奉仕する特別の官にして之を宮主と唱へ相傳ふること神祖より三十四世國造家宗成に至りて時の豪族小笠原長宗に横奪せられ長宗一宮氏を冒して祭官に任せられ相傳ふること三世にして成行と云ふ成行の父成宗一宮城を築き移る是れより城主と祭官とを二分して其子に傳ふ長を成良とす代々城主を相傳して一之宮城に居り次を成直とす祭官を相續して神領村國造別館にありて祭職を務む之を一宮殿の祖とす一宮殿代々祭職を傳ふる又数世にして木屋平氏に滅せらる惜い哉一之宮殿の亡びて後祭官絶へて僅かに別當神宮寺と御供炊人なる阿部氏等の奉仕するのみとはなりて千古の盛典格式をして空しく其儀を失はしめ随て式内の大社をして空しく他の小社と相齋しからしむるに至る噫請ふ誠に口碑傳説の信すべき證在を列舉して其理を詳述せん
上一宮大粟神社の分靈を祭祀する名東郡上八万村大字一宮村一宮神社に傳はる阿波女社宮主祖系と題せる書あり上古より祭官たりし國造家三十四代世の人名を記し其末に「以祭事傳神禄附属祭官宮内大輔長宗」と書せり蓋し小笠原氏未だ一宮氏を冒さざる前に於て祭官職を得て祭官の傳來を記述せしものとす此書果して原本なるや將た一宮殿に藏する所のものを傳冩せしものなるやを知らずと雖も以て本社祭官の傳來を察知するに足る其書によれば祖神を阿波女神となしその始祖を若室神と為す若室神より天盤戸主神健豊神健忍方神多久理彦神八倉主神宇賀主神畠多神等数世の諸神相継き後を佐人と云ふ佐人より賀田彦、於志翁、屋那男、岩肩彦、豊長彦、里利夫、與理彦、田茂理、豊茂理、豊成、兼諸、経宗、忠成、忠宗、宗長、宗信、宗國、宗慶、宗堅、宗親、宗昌、宗時、宗行の二十余世を経て祖神より三十四世を國造家宗成と云ふ宗成に至り祭神を以て神録附属を祭官小笠原宮内大輔長宗に傳へしを知る即ち上古阿波女神の神裔代々國造家として祭官を奉せしこと暦然たり
以上の國造家が在往せしを國造本館と称し今尚上山村栗生野に其館跡存せり上古より世々國造家の在往せし所と云ふ而して神領村に國造家別館なるものとあり即ち阿波風土記に國造館となせるもの之れなり

確認しておきたい点は3点

1. 古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司った。
2. 神祖より三十四世國造家宗成に至って小笠原長宗に横奪せられ長宗が一宮氏を冒して祭官に任せられたこと。
3. 「阿波女社宮主祖系」と題されている、祭官たりし國造家三十四代世の人名を記した書が一宮神社に伝わっていること。

順序が逆転しますが、項目3の「阿波女社宮主祖系」に関しては、元徳島県教育長の福家清司(ふけ・きよし)氏の「阿波国一宮社と「国造」伝承」という 論文があり、その中で

「阿波女社宮主祖系」についての言及があり


この「阿波女社宮主祖系」現在は一宮神社には伝えられていないとの記載が見受けられます。

また、大正4年の神領尋常高等小学校校長である日浦氏が編纂した「神領村誌」に「阿波女社宮主祖系」を閲覧した旨の記載があることから、大正初期までは存在したとの見解を示しておられます。


上記写真は大正4年の「神領村誌」
つまりは100年ほど所在不明になってた訳なんです。

で、公開できないのが下の史料「阿波女社宮主祖系」(笑)
怒られちゃうけど入ってた封紙だけ写真を出します。

史料に
蜂須賀氏は(一宮)光信を一宮神社の神職に招き、以後、光信の子孫が一宮神社の神職を世襲した。そして、勝定のとき、蜂須賀氏の縁戚である小倉小笠原氏と同姓であることを憚って、小笠原から笠原に改姓したと伝えられている。
とあるとおり、神主笠原となっております。
内容は、上記写真のように始まる内容なのですが、公開許可を得ておりませんので、マスク写真でご容赦いただきたいと思います。
で、次回からはこの内容から始まる大宜都比売命末裔の説明をさせていただきます。
続く

2 件のコメント:

  1. どうも。お疲れさまです。
    阿波女社祖系は調べれば調べるほど面白いですよね。
    畠〇神は「秦」、宇〇主神は「ウカノミタマ」と勘繰ってみたり。。。稲荷繋がりでね。なんせ大きい狐ですから。
    当シリーズ、ぐ~たらさんの隠し球を期待しておりますよ~。それでは。

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    1. 隠し球は.............
      無し!!!!!(威張ってんじゃないよってwww)
      あとはお任せしますたwww

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