2017年10月15日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(3)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
となるような気がする今日この頃です。
続いております「願勝寺歴代系譜」。
分かりにくいところと、一般に興味がなさそな部分もあるかと思いますので(いいのか?)三、四、五代と続けて書いていきます。


三代大福上人

是亦忌部大祭主玉淵宿禰第三の庶子なり



此上人本名は智教なれ其生涯国中を勧化し百三十余箇寺を建立し且つ義淵上人上足の内
行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ神亀元年秋当院を勅願所に定むるの朝命を蒙り其上父玉淵宿禰をす﹅めて忌部神社法楽として法福寺の大伽藍を創立す

後此寺を本福寺と改め又は忌部神宮寺と号し別に二寺を建て、弟子に附属す是所謂東寺西寺也
此亦後は改めて東福寺西福寺下云如此大功徳なすか故に国人の尊敬一方ならす仏菩薩の再来ならんと称せらる﹅の故に朝延より大福上人の美名を賜ひ果報目出度上人なり


四代実厳法師


外山忌部麻植正信の三男にして大福上人の嫡弟なり

聖武天皇の朝天平十三辛已年八月忌部大祭主阿刀弗宿禰大病によつて行真上人行基菩薩彫刻の薬師仏ら祈り其応忽に霊験現はれ病気平癒し其恩謝として麻植口に於て一宇を建立し平癒山薬師院福生寺と号す
此時阿刀弗の招によつて福生寺に転住し当福明寺院は弟子実念に譲る




五代実念法師


実念師は讃州綾の郡林田荘司景任の未子
先住実厳の嫡弟にして都に上り勤学累行の功を積み一時大徳の名を得て国に帰り忌部神社を下郡なる伊須の里に遷すの時三福寺福生寺其他寺院別れて彼地に移り共に忌部下宮を奉祠するの処神託によつて社地近傍の路辺に桜を植へて忌部山植桜の宮と称し追々繁栄するによつて実念植桜の神社の為伊須の里に七ヶ寺の大坊を建立し延暦二十二年八月四日行年五十一歳にて寂す


さらさらっと流そうとも思ったんですが、第三代大福上人の項で行基についての記載が出てきます。
一般的には行基とその三千人にも及んだと言われる支援団体が次々と寺院を建立していったと言われておりますが、系譜の『大福上人が建立し、「行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ」た』、の記載を見ればあながちそうでもなさそうに思えてきます。
ちなみに行基ゆかりの寺院を下に記載してみますが、資料はあるものの転記するのがめんどくさいんで今回は徳島県の分だけね。(ごめんね)

密巌寺
徳島市不動本町

薬王山 国分寺 金色院
行基の開創で本尊の薬師如来も行基作。明王堂には偸伽大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られている。

井戸寺
聖徳太子作の本尊七仏薬師像の脇仏の日光・月光菩薩像は行基作とされている。

大栗山 大日寺
徳島市一宮町西丁263

八葉山 東林院
天平5年(733)行基菩薩を開基にして、高野山真言宗八葉山東林院と称した。

竺和山 霊山寺
天平年間(729~749)聖武天皇の勅願で行基が開創。(729~748)

極楽寺
行基の開創。

立江寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。皇后の安産祈願として小さな金の地蔵菩薩(本尊)を安置。

恩山寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。本尊の厄除けの薬師如来も行基作。

願成寺
阿波市(旧阿波郡)阿波町字山ノ神

真楽寺
美馬市(旧美馬郡)脇町

大瀧寺
神亀3年(726)行基菩薩が塩江より登山し、阿讃山脈秀峰に一寺を建立し、阿弥三尊を安置。

最明寺
美馬市(旧美馬郡)脇町猪尾字西上野

観音寺
美馬市(旧美馬郡)穴吹町三島字三谷

蓮華寺
三好市(旧三好郡)池田町ハヤシ 奈良時代に行基が開創したとされている。(708~749?)

長楽寺
三好市(旧三好郡)井川町辻中岡

多聞寺
阿南市福井町字宮北 毘沙門堂に行基作という毘沙門天像がある。

神宮寺
阿南市福井町字大宮 大宮八幡宮の元別当。もと小谷にあり、一の谷寺と称した。行基菩薩の開基で、弘法大師が再建したといわれる。長宗我部氏に焼かれ、正保年間(1644)に天神坊が移転再建した。御本尊は不動明王。

千福寺
見能方八幡社の別当寺。神亀元年(724)に行基が薬師如来を彫って創建したという。御本尊は薬師如来。

童学寺
行基の開山とされている。弘法大師が幼い頃、この地で書道や密教の学問を修得されたことから寺号を童学寺と称されている。弘仁6年(815)、再びこの地を訪れ堂宇を整え、薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天、歓喜天を刻み安置。

薬王寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。(726)

八坂山 鯖大師本坊 八坂寺
行基の開基。

金泉寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。

にしても、なかなか出てこない寺院の由緒とか時代が垣間見られて、興味のある方には堪えられんのではないでしょうか。
ではでは、ここいらはさらっと流して次へ進みます。
続く
今回は甘口で


2017年10月13日金曜日

麻植の系譜:願勝寺編(2)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
の続きです。


ここら書いてると仏教についていかに疎いかが実感されて辛いのなんのって、書くの止めよかなって思ったりね(笑)

えーと、
ご覧の通り元文書はカナ混じり文で書かれていて、ひじょーに読みづらいので勝手にひらがな変換して、ついでに改行までしちゃいました。
例によって、「些細な」入力間違いや改行が変だとかいう指摘は、心のうちにそっとしまっておいてください。(笑)

二代福淵僧都


俗姓は麻殖忌部布刀淵の三男にして幼名淵麿と云福明師の弟子となって師名の一字福の字を嗣て名を福淵と改め諸国修行して其名世にしられ後帰国して師跡を嗣き且つ福明寺の上に方壺山と云山号を冠らしむ

此時天笠(まま:天竺か?)国より法道仙人と云者釈尊の御母摩耶夫人菩提の為鋳玉ふ所の観音大士なりと閻浮檀金の一像を将来して仏母山卯利天上寺を建立す爾時比観音より光明を放ち南海一面の地を照す

法道仙人是有縁の地なりと先淡路国津名郡に摩耶山仏母寺を立て次に阿波国に渡り来て伊宇山を見て足仏母前出世の地なりと一宇を立て、伊布摩耶山仏母寺と号す依之下方淡路阿波の三寺を三摩耶山摩耶参りと云諸国参詣の人群をなす盛んなりしこと其也



福淵僧都聞之比法道仙人とは何者なるか夫れ本朝の仏法は推古天皇の三十三年乙西正月高麗国の恵灌法師大唐の三蔵法師より三輪宗を受て我朝へ来り元興寺に住して始て仏法一宗の明説を啓けり

飲明帝の御宇百済国より始めて仏法渡来すと雖只仏像のみにして未た宗旨を聞かす故此宗は日本最初の宗也此乙酉は大唐の神堯皇帝の武徳八年に当れり中論百論十二門論を主とす

此三論は諸法蕩滌の深理なれは竜樹玄旨を吐き羅什所述の真伝を唐朝より三韓に伝へて西蕃の諸国弘く尊信する所なれは我朝独り受さるの理あらんやと

推古天皇以来皇家の皈(帰の異体字)依し玉ふ所なれは道昭法師入唐して慈恩と共に玄奘三蔵を師とし此法相宗を受け皈(帰)朝の後元興寺の東南の隅に別に一室を営み頻りに此宗を説き法相大乗応理円実宗と唱ふと雖来た一宗の規則立す

其後追々智通智達の両法師入唐して慈恩大師の直教を受嗣てより弥其宗法盛んになるもよって三論宗よりも比宗旨を兼学するの例とはなれり


今や法道の法其出処分明ならす取るへき所更になし足や外道の宗法ならんと大に罵り速に上京して此論を明決せんと其用意をなす所に出火の災によつて其火を防かんと煙中を厭はら指揮せし故にや忽大病となって三日三夜の暁天に逝去し玉ふ

此変によって其跡大混雑の事あって上京議論の沙汰は其尽となる鳴呼可惜遂に其事を果さす残念なりき事共なり


これを麻植氏系譜と見比べてみますれば

三十二
玉淵
布刀姫
布刀淵
      天智天皇朝玉淵ヲ大錦上トシ忌部大祭主トス天武天皇朝再同郡明定トシテ
      伊勢王大綿下羽田八田来リテ阿波十郡ヲ復古シテ十三郡ト定メ麻殖上郡
      阿波上郡ヲ合シテ美馬郡トス麻内山ハ神領ナル故麻殖中郡トシテ之ヲ別
      朱鳥元年康成三月天日鷲神社修理造営ヲ加フル時天笠ヨリ法道仙人ノ母
      摩耶夫人菩提ノ為ニ鋳玉フ門浮標金ノ観世音ヲ将来シテ仏母摩耶山忉利
      天上寺ヲ建立シ玉フトキ比金像ヨリ光明ヲ放チ通ニ南海ヲ照ス法道上人
      先談路山ニ登リ摩耶山ヲ建立シ夫ヨリ阿波ニ来リ伊宇山ヲ具テ比山ハ仏
      母前世出生ノ地ナリト云テ一宇ヲ建立シ伊宇摩山仏母寺ト号ス
      天武天皇朝役小角大和ノ吉野蔵王権現ヲ高越山ニウツス

布刀淵の名はちゃんと記載されております。
また法道仙人(上人)の記載についてもほぼ同じくして見ることができます。
で、「法道仙人」って誰だ?って話になると思いますので、簡単にご説明をいたしますれば、

ほうどうせんにん【法道仙人】
播磨国の法華山一乗寺(加西市)を中心として十一面観音信仰を伝えたという仙人。天竺の霊鷲山(りようじゆせん)の五百持明仙の一人で,孝徳天皇(在位645‐654)のころ日本に渡来したという伝説上の人物。〈飛鉢の法〉をよくし,空鉢仙人ともいわれる。御嶽山清水寺(加東郡社町)の平安末期の文書が文献史料として最古のものである。鎌倉末期から南北朝期になると播磨の有名山岳寺院20ヵ寺を開いたという伝承が成立し,江戸時代には,播磨はもちろん,但馬,丹波,摂津にいたる諸寺の縁起類に名前がみられる。
法道仙人
とのことでございますね。(引用だけかよって?(笑))
で、まあ。
ご覧の通り何があったかのかはよく分かりませんが(想像はつくけどね)

今や法道の法其出処分明ならす取るへき所更になし足や外道の宗法ならんと大に罵り速に上京して此論を明決せんと其用意をなす所に出火の災によつて其火を防かんと煙中を厭はら指揮せし故にや忽大病となって三日三夜の暁天に逝去し玉ふ

などと怒りまくった上に、火事が原因でで亡くなってしまうという、ね。
法論の諍いは外部からはわからんですが、読めばみっともないような気がするのは、あくまで個人的な意見でございます。(笑)
ともあれ、法道仙人がでてきたところで、時代背景が感じられてきたのではないでしょうか。

もう一つ説明を付け加えれば

山号の「方壺山」、今は「寳(宝の旧字体)壺山」となっておりまして

方壺山 ほうこさん
中国,渤海にあったという伝説上の神山――蓬萊(ほうらい),瀛洲(えいしゆう),方丈(方壺)を指し,仙人たちが住み,不老不死の薬があるという。いずれも壺の形をしているので〈三壺山〉ともいわれる。先秦時代,渤海沿岸の燕や斉の方士(神仙の術を行う人)たちが唱え,秦の始皇帝や漢の武帝らの心をつかんだ。
ということで、なぜこの伝説の神山と言われる「方壺山」を山号にしたかというのはM木氏に聞いていただければ分かるのではないでしょうか。(M木氏って誰だ?)

で、今日十月十三日はこれからお祭り、あと2時間ほどで神輿を担ぎに行くというお勤めが迫っておりますので、この辺りにさせていただきます。

次回から徐々に隠された史実に迫っていくかもしれないし、迫らないかもしれないという壮大な計画であります。(こらこら)
続く
何を見てるんだヨォォ

2017年10月8日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(1)

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
麻植の系譜(4)
麻植の系譜(5)
麻植の系譜(追記)
に続きます。

願勝寺(真言宗)
徳島県美馬市美馬町願勝寺8

平安時代、崇徳上皇に仕えた阿波内侍が上皇の菩堤を弔うため都に建てた願勝寺を、母の生国の阿波の維摩寺(奈良時代建立)に移し願勝寺となる。その後、歴代守護や藩主の庇護を受け郡内を代表する寺院となる。国登録有形文化財である八脚門(明治時代)、天竜寺と同一手法の滝組の県指定名勝「願勝寺庭園」(室町時代)、県内最古の博物館「美馬郷土博物館」がある。 wikipedia

【略縁起】
歴史は古く奈良時代にさかのぼり,はじめ維摩寺、のち福明寺と称し、平安時代の後期、保元の乱の後、崇徳上皇皇紀阿波内侍の願により願勝寺と改める。守護小笠原長房の祈願所、細川氏の祈願寺など歴代国主の尊崇をうけ蜂須賀氏入国の節には方八町御免池、郡中出家取締となる。十六代住職真上人は南朝方に味方して暗殺され、二十五代快上人は阿波の法茸騒動の時反対運動の先頭に立ち、三千人の山伏を動員してその野望を押え、幕末には四十四代美馬君田が勤皇の志士として活躍し、その功により正五位を贈られるなど積極的にその時代に生きた住職もあり、現住職で四十九代目になる。
本堂北側の庭園は池泉式枯山水の庭園で滝石の石組が注目され薄い板状の青石を水落とし石とした石滝は、天竜寺庭園とよく似ているといわれ、徳島県の名勝に指定されている。県指定の文化財としては、聖来迎図があり、又、境内には美馬郷土博物館があり、国指定の段の塚穴、同じく指定の郡里廃寺後の出土品等多数展示してある。
新四国曼荼羅霊場 HPより



 寺前の略寺史にはご覧のように
「當寺は忌部五十麿の草創にして
 阿波八門首の一寺なり。」
との記載があります。
奈良時代に、いわゆる忌部氏の一人「忌部五十麿」が創起したということは、上記の説明からもわかると思いますし、
麻植の系譜(追記)
でも書かせていただいた、崇徳上皇皇妃「阿波内侍(あわのないし)」由縁の寺であることも知られております。
では、「忌部五十麿」とは誰で、何故「願勝寺」を建立したか、などなど阿波で忌部氏を知る者としては気になってくるではありませんか。
(え、気にならない?まあ、それはそれで良しとしませんか(笑))

そうこうして(どう?)調べておりますうちに、見つけてしまったのが

と、こうゆーものであるわけなんですが、そのうちの一文書に

「願勝寺歴代系譜」なる一文を見つけてしまいましたので、以降数回にわたって僭越ながら説明などさせていただこうとの御趣向で進めさせていただきます(笑)。
まずは「開起」より

    
 願勝寺歷代系譜

初代福明律師
 当院ノ開起ニシテ俗姓阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿
禰ノ庶弟也幼名ハ忌部五十麿ト云へリ共父岩木宿禰菩
提ノ為上京シテ元興寺福亮法師ノ弟子トナリ出家得道
シテ名ヲ福明ト改メ法相宗ノ学匠トナッテ斉明天皇ノ
四年ニハ維摩会ノ大講師ト仰カレ則斉明天皇ノ戒師タ
レハ都鄙共徳ヲ称ス天智天皇ノ朝阿波忌部大祭主玉満
宿禰都ナル叔父福明律師ノ為ニ阿波上郡ニテ一寺ヲ建
立シ福明律師ヲ開基トシ共名ヲ維摩寺ト号シテ維摩会
ヲ修セシメ現当二世ノ洪福ヲ祈リシトコロニ朱鳥元年
三月十日律師遷化シヨテ律師ノ名ヲ後代ニ伝エン為
メ維摩寺ヲ改メテ福明寺ト号ス是阿州寺院ノ権輿也

さて
で説明いたしました「麻植氏系譜」を思い出していただきたい。

三十一代「玉垣宿称」
玉垣宿祢    忌部社ニ八重ノ玉垣ヲツクル故ニ伊年部玉垣ノ宿称ト云錦冠赤
        衣ヲ賜リ忌部氏人ノ長大祭主トナル又時忌部旧領ヲ復スル事ヲ得タリ
とある「玉垣宿称」の庶弟、おそらくは義理の弟ではないかと思われます。
この幼名「忌部五十麿」が奈良の元興寺福亮法師の弟子となり、名を「福明」と改め、斉明天皇の戒師となった。
その後、朱鳥元年(686年)律師が亡くなったため、その名を残すために維摩寺を改めて福明寺としたのが開基であります。

(注)
維摩会(ゆいまえ):維摩経を講ずる法会。特に,興福寺で10月10日から16日までの7日間行われた勅願の法会。藤原鎌足が山科陶原(すえはら)の邸を寺として講じたのに始まるといわれる。南都三会の一つ。
元興寺(がんごうじ):奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。

さて、忌部大祭主直系の弟が奈良の元興寺で修行し、斉明天皇の戒師となった・・・
などという話は、ワタクシも全く見たことも聞いたこともございませんでした。
無論、疑うも良し、偽書だと断ずるも良し、ですが二つの文書に同名が現れ、後述いたしますが複雑に関係し合うのを見れば単純にでっち上げだ、偽物だと言い切れないと感ずるのは私だけでしょうか。(だったりして(笑))

では数回にわたってお付き合いを願いましょう。
続く

そーれ、ヤバイよヤバイよ(笑)

2017年9月12日火曜日

天日桂神社例大祭復活 平成二十九年九月十日

天日桂神社(上)
天日桂神社(下)
天日桂神社 御造営祭
の続きのような感じでありますが。

というわけで、九月十日の善き日「天日桂神社例大祭」が六十数年ぶりに復活いたしました。



◯万円かけて説明書きも建てられております。

が、なぜこのイラストを使わなかったのか?
いいと思いませんか?
で、看板の内容ですが。

天之日鷲(あめのひわし)と神ノ山(こうのやま)(向麻山)

徳島県はむかし阿波の国と呼ばれていましたが、それより以前は粟国(あわこく)と長国(ながこく)という二つの国に分かれていました。その粟国にはのちに忌部(いんべ)と呼ばれる一族が住んでいて、粟国の内だけでなく海を越えて関東にわたり作物をつくったり、織物の作り方を教えたりして、その一帯を開拓しました。
その忌部の一族の祖先といわれているのが「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」と呼ばれる神様です。言い伝えでは、今「鴨島向麻山公園(かもじまこうのやまこうえん)の向麻山(こうのやま)はむかし「鴻ノ山」と書かれたりしていましたが、本当は「神ノ山」(こうのやま)と書き、天日鷲命のお墓(御陵)があったために「神ノ山」と呼ばれていたのですが、長い年月のうちに、理由が忘れられて書き方も変わってしまったとのことです。
ここ「天日桂神社(あるのひかつらじんじゃ)」は向麻山を見上げる場所にあり、天日鷲命と黒高大明神(くろたかだいみょうじん)をお祀りしています。
もしかしたら、「天日桂神社」をおがんだその先に天日鷲命のお墓があるかもしれませんね。

などと書かれておりますが、これには別案が二案あったそうで

案1
現在の吉野川市の旧名である麻植の地名は忌部氏の祖神である天日鷲命が麻種を植えたことから名づけられ、平安時代中期に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)にもその名を見ることができる。
向麻山(こうのやま)は、天日鷲命の御陵があるために神ノ山と名付けられたとの伝承があり「天日桂神社」は天日鷲命の御陵を祀るために建立されたものと考えられる。

案2
大同二年(807年)に斎部広成が編纂した古語拾遺(こごしゅうい)によれば、神武東征において紀伊国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原宮を造営した忌部氏の祖であるといわれる天富命が、肥沃な土地を求め阿波国の開拓をし、穀・麻種を植えたことから麻植郡の名になったという。
平安時代中期、承平年間(931年 - 938年)源順(みなもとのしたごう)が編纂した和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)にもその名を見ることができる。
天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、『日本書紀』や『古語拾遺』に記載される阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。
日本書紀によれば天照大御神が天岩屋に隠れた時、天日鷲神と津咋見神が穀(かじ)の木を植えて白和幣(にきて)を作ったといわれ、「麻植(おえ)の神」とも呼ばれる。
「阿波国風土記編輯雜纂」採録の「麻植塚村舊蹟傳」において、吉野川市鴨島町上浦の向麻山(こうのやま)は、もともと神ノ山(こうのやま)であり、天日鷲命の御陵が麻植塚にあるために神ノ山となったとの伝承が記されており、向麻山の一部が麻植塚に属していることより向麻山のいずこかに天日鷲命の御陵が存在し「天日桂神社」は天日鷲命の御陵を祀るために建立されたものと考えられる。

この二案よりストーリー性があるとかないとかの理由で看板の表記になったそうです。







その後、例大祭の後太鼓の奉納となりました、

さて、ワタクシめがこの例大祭のために用意したのは下二つの資料。
一つが「天日桂神社 例大祭復活に於いて」。
これがねぇ、真面目に書いちゃったもんですから、つまんないんです。(笑)
ホントに史料でしかないという。
困ったもんです。


もう一つは「天日桂神社讀本」これは日鷲の会限定とさせていただきましたので、上記「天日桂神社 例大祭復活に於いて」の内容を出させていただきます。
「天日桂神社讀本」については、ごめんなさい。

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天日桂神社 例大祭復活に於いて
平成29年9月10日

1.忌部氏について
忌部(いんべ)氏は、通説的には天太玉命を祖とし中臣氏と共に古来祭祀氏族として天皇家に仕えてきたとされる神別氏族であり、「忌部首(いんべのおびと)」、「忌部連(いんべのむらじ)」、「忌部宿禰(いんべのすくね)」のち中央においては「斎部」と改称され古代朝廷における祭祀を担った有力な氏族の一つです。

2.麻植について
一般的に言われる中央忌部とは別に出雲・紀伊・阿波・讃岐の忌部が知られており、阿波忌部は天日鷲命を祖とし、「古語拾遺」においては「麻植」の郡名は阿波忌部が麻を植えたことにより名づけられたとされています。

3.天日鷲命について
天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、日本神話に登場する神。「日本書紀」や「古語拾遺」に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神をいいます。
「日本書紀」では天の岩戸の一書(あるふみ)に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」と記されており、日本建国以前からの神であることがわかります。
「古語拾遺」にも、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの一柱であり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったことにより、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神とされています。
阿波国内において天日鷲命を祭る神社は
○徳島市二軒屋町 忌部神社  ○山川町忌部山    忌部神社
○山川町木綿麻山 高越神社  ○つるぎ町貞光字吉良 御所神社
など複数あり、古には本貫地をめぐって訴訟になったこともあり、このことは「忌部公事(いんべくじ)」と呼ばれました。
国学者、小杉榲邨(すぎおみ)収集の早雲家系図等を見ると「天日鷲命」が六代続いているのを見ることができます。「天日鷲命」というのは個人名ではなく、地位や階級を示す呼称であったという考え方をすれば、本貫地(あるいは御陵)が複数あってもおかしくなく、逆に複数無ければいけないのではないでしょうか。

4.阿波国風土記編輯御用掛について
明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模な編纂が企てられましたが、同五年の廃藩とともに廃止されました。
この編輯掛には多くの国学者・儒学者が出仕し、「風土記編輯御用掛」と呼ばれたメンバーにより、いわゆる「阿波国(続)風土記」が官製の事業として編纂されようとしており、その最終巻のさらに最後に近い部分、下記の文書が収録されておりました。

  「麻植郡麻植塚村舊跡傳(おえぐんおえづかむらきゅうせきでん)」
  麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
  其ノ處ハ麻植郡麻植塚村ト云
  麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
  古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
  川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云
  .
  麻植塚
  コノ御陵ノ南ニ當ツテ麻植塚前ノ同處ト地ノ字ニ残レリ
  コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
  民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
  同地トアリ


私たちはこの伝承を調べているうちに、ここ「向麻山(神(カウ)ノ山)の麓に一つの小さな小さな祠があることを知ったのです。
その小さな祠の名は、地元の方が「くろたかさん」と呼ぶ「天日桂神社」。
5.天日桂神社について
ご祭神は「天日鷲命」と「黒高大明神」。
「天日鷲命」は先に説明した通りですが「黒高大明神」についての由緒は不明です。
「高」は「鷹」の転かもしれず「天日鷲命」の御陵を守る忌部の一族であったかと想像することもできます。

大正11年の「麻植郡誌」には

麻植塚には麻植塚と称する塚があって之に依って地名を生じたのであるとの口碑がある、慶長九年の検地帳にも麻植塚と記してある忌部神を麻植ノ神と称されたると見れば麻植ノ塚があっても差支はないが麻植、塚と称して居る塚を見ると忌部神などの塚とは思はれぬ、忌部神の塚であれば必ず古墳でなければならぬ恐らく後人の附会したる説であらう・・・

と、「麻植塚」に古墳がないとの記載を見ることができます。
確かに「麻植塚」と呼ばれる塚は、古墳と呼ぶには少々規模が小さく「塚」の規模であることは否めません。
「麻植塚」といえば、ほぼ「JR麻植塚駅」近辺を想像しますが、地図と「麻植郡麻植塚村舊跡傳」とを照合してみますと、麻植塚駅は「麻植塚」にはなく「麻植塚」は「向麻山」の一部を含む範囲であり、麻植塚には古墳となるべき山が存在しているのです。
その観点からすれば「向麻山」の頂上には忌部の社である「竜眼神社」が鎮座し、付近にも五社神社等、忌部ゆかりの古跡が散在するこの地に「天日鷲命」の御陵があるとの想定してもおかしくないと思われます。
これまでの想定に基づけば「天日桂神社」は「天日鷲命」の何代目かの「御陵」の遥拝所たる位置にあるのかもしれません。

こうして60余年振りの本日「天日桂神社」例大祭は復活いたします。
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で、例祭と太鼓の奉納の様子を撮ってみましたが、またしても動画のサイズ設定がうまくいかないんで、YouTUBEから直接見た方がいいと思います。



2017年8月12日土曜日

麻植の系譜番外編「麻生の系譜」

とーとつですが「麻植の系譜」シリーズの追記となります。

『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)七月乙酉《十四》
◯乙酉。阿波國麻殖郡人外從七位下忌部連方麻呂。從五位上忌部連須美等十一人賜姓宿祢。大初位下忌部越麻呂等十四人賜姓連。
とあります。


ここに現れる宿祢姓を賜った「從五位上 忌部連 須美」。
從五位の階位というのは律令制度の地方官にあっては国司や鎮守府将軍に相当する位で、從五位下を得ることが貴族の条件であったそうで、從五位上はなかなかの立場であったと思われます。

ちなみに古語拾遺の斎部広成(いんべのひろなり)は最終的に從四位下の階位を賜っております。

このような国史顕在の人物が阿波ではあまり見当たらないのが残念なところですが、これを例の「麻植氏系図」より見てみますと。
下のページの一番右。

三十四
従五位上忌部宿禰大祭主 後ニ須見ヲ以氏トス
と見えますね。

この「從五位上 忌部連 須美」、「阿波志」麻植郡の部を見てみますと。
「須美祠 
       在山崎村八幡祠側◯須美即.....」とあり。


これはもちろん、今も厳然と鎮座いたします「山崎八幡宮」のことでありまして。
このすぐ側にあるんですが.....。
うーん、ここなんですけどね.....。

裏側から見るとよくわかるんですが、完全に崩れちゃってるんですね。
当時のものかどうかはわかりませんが、これはちょっと酷いっすよねぇ。
案内表示もないし、ブロックの上に積んであるし......。
この崩れた部分が本体なんだから、まさか撤去とかしませんよね、ね、ね。
とは書いたものの、どうもこの「須美祠」在るのは麻生家の敷地内らしいので、参拝されるときはご注意ください。

で、「麻植氏系図」に、「従五位上忌部宿禰大祭主 後ニ須見ヲ以氏トス」とある、「以って氏を成した」氏というのが下の図にある「麻生」氏でございます。
(注)下図の麻生氏系図は斎藤貢氏著「阿波の忌部」からの出展で、現在麻生家に遺っているとされる系図は「社雄」から始まる系図ということであり、下図とは違っております。


赤く囲んであるところが「須美」ですね。
麻生氏系図に「須美 従五位下」とあるのは、左下(阿波志)の記載を「従五位上」と書いてありますので、誤記に違いないですね。

一般的に麻生氏といえば
  麻生氏(あそうし)は、日本の氏族。系統を異にする以下の氏族がある。
  常陸国の桓武平氏大掾氏一族(常陸麻生氏)。
  長門国の一族。
  筑前国、豊前国の一族。
wikipediaより

常陸国の桓武平氏大掾氏一族(常陸麻生氏)は50代桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫なので、天長2年(825年)以降の系譜。
筑前国、豊前国の一族である麻生氏は、「筑前国遠賀郡麻生郷の大身で宇都宮氏の一族城井氏の庶家」らしいので、遠祖のそのまた遠祖として藤原北家があるのですが、あまりにも遠すぎて追っかけるのに一苦労したので、ここでは書きません。

つまり何が言いたいかといえば、桓武平氏や宇都宮氏の系譜と離れたところに 「阿波の麻生氏」が存在していたことを考えていただきたいと思うのです。

最近こんなの貼ってなかったんでwww)

上の「麻生氏系図」を見れば、さらに遡って「作賀斯(古語拾遺)」「子麻呂(日本書紀)」と現れるのですが、「須美」については祠まで遺ってるということで追記とさせていただきましたとさ。


2017年8月6日日曜日

天日桂神社 御造営祭

の追記となります。
大正11年の麻植郡誌を覗いてみますと。



麻植塚には麻植塚と称する塚があって之に依って地名を生じなのであるとの口碑がある、慶長九年の検地帳にも麻植塚と記してある忌部神を麻植ノ神と称されたると見れば麻植ノ塚があっても差支はないが麻植、塚と称して居る塚を見ると忌部神などの塚とは思はれぬ、忌部神の塚であれば必ず古墳でなければならぬ恐らく後人の附会したる説であらう、麻植は即ち森山村、西尾村附近の古称である 塚は洲處を意味するスカの濁ったものである先須賀、千田須賀等スカを称する地名は吉野河下流の沿岸に甚だ多い、又スカを濁ってズカと称し塚の字を宛てた例は板野郡に佐藤佐野塚、小塚等がある

だそうです。
どなたがお書きになったのかは存じ上げませんが、残念でございました。
麻植塚には古墳とあるべき山がございます。
でも書かせていただきました、向麻山でございます。
同様に、明治時代より向麻山の一部は麻植塚に属しております。
「塚」があっても全くおかしくないのです。
ただ、当時も「忌部神」の塚があったとの伝承はあったことが確認できました。

さて、8月6日に行われました「天日桂神社」御造営祭の模様です。





動画もちょっとだけ撮ってみましたが、ちゃんと再生できるかな?
YouTubeからみた方がいいかも。


次は9月10日に大祭の復活だそうでございます。
何かあれば続く。