2017年12月9日土曜日

麻植の系譜:願勝寺編(9)END

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)
麻植の系譜:願勝寺編(7)
麻植の系譜:願勝寺編(8)

ちょっと追記でございますが、前回記載いたしました「定光寺」、「麻植定光」の菩提を弔うため建立されておりますが、「麻植定光」の首塚は貞光町内にまだ残っております。

「麻植定光首塚」

で、二十一代月心上人から二十四代快念法師までを記載いたします。
先にネタばらしをいたしますと、二十四代快念法師の代、あるいは麻植氏六十七代持光で麻植氏は実質滅んでしまいます。
では。

二十一代月心上人
                                  

忌部大祭主麻殖利光の庶弟也
覚念阿閣梨の譲りを受、当院に住すると雖、生得風雅を好み和歌に耽り諸国を漫遊して名処古跡を尋年月を経る其留主中先住の遺弟浄円坊と云老僧に託し置けり旅羅にある○十八年也
遂に皈国して八十四歳の寿命を得て延徳二年(1491)八月十五日寂す



二十二代鏡智上人



讃州十河の人なり、其父十河重保と云は人皇十二代景行天皇の王子神櫛王の後胤にして即ち其領主も十河氏にして同姓なれは親しき間柄の処議者の為に寛罪を受て其国を追はれ阿波に来り忌部の祭主麻植利光の家に客たり
重保望みて其子を月心の弟子とし其身も出家して鏡覚法師と云月心同行にて国を出遂に関東にて別れ其行方を知らすと云故に鏡智上人も亦弟子観月に留主を託し二十九年の間た諸国に修行し奥州宮城野にて父の墓を尋ね出し此処に草庵を立て﹅住しける三年過て皈国し当院に再住し所々寺坊を多く立てて当宗を再興す
此時に当つて諸国共一向専念の宗世に流布して真言宗旦那を失ひ其寺無住となるもの多かりける中にも忌部神領の地は往昔より真言一派の外他宗とては一ケ寺もあらざりしに其地の人民、専修念仏に皈依して一向宗となつて其宗の伽藍を立んと企つるもの数多けれは鏡智上人大に怒つて真言宗一向宗両宗の勝劣を説て祭主らす﹅め一向帰依の旦那六人を誅戮す
是より忌部神領祭主の私領に至る迄一向宗の旦徒一人もなしこれ実に鏡智上人の大功なり



二十三代觀月上人





俗姓は田口氏也
即其父田口正道は名西郡桜間郷の住士にして中古元暦の頃平家の為に忠勤をなせし阿波民部大輔成良の子田內左エ門成直の後胤也と云
鏡智上人の譲りを受て当院の院主となる、され共去応仁の乱○より諸国大乱の世と変し貝鐘の音絶間なく万民安居なりかたき中に此阿波国は猶更細川氏の本国として国力を尽して軍兵出勢するに付て農民も兵粮の運送に遣はれ農事に怠り国中窮困に逼り山には山賊野には野武士追剥強盗の類多くして只一日片時も安堵なる○なけれは人々不信にして諸寺諸社も大破に及ふ処天文三年(1534)疫病流行し寺中にも此病、入込老若男女打伏し看病人もなき処何者の所為にや、土蔵より出火して折柄西風烈しく堂塔一宇も残らす、焼亡し病人は大半焼殺され跡は赤土と成によつて院元観月上人も一端火中を遁れ出る事は得ると雖病中なれは人に助けられ岩倉城下梶八左エ門の宅まで落て先は安塔と思ひの外遂に同月十八日此処にて病死し玉ふ哀れなる事共なり



二十四代快念法師


俗姓ハ下野国那須鄉ノ士那須ノ二郎太夫資義ノ二男也ト云
高野山ニテ勤学シ阿州へ来リ忌部神社ノ大祭主麻植因幡守ヲ頼ミ初メハ神宮寺北神坊ニ寄宿ノ処因幡守ノ計議ヲ以テ願勝寺ヲ再興セント千辛万苦処々方々ニ化シテ漸ク
天文十九年秋本堂庫裏土藏普請皆出来成就シケレバ遠近ノ旦徒男女老若共ニ悦ヒ愁眉ヲ開キ日毎ニ参詣ノ貴賎群ヲナシ快念上人ノ徳ヲ崇ヒ寺門ノ脈ハヒ往昔ニ復スルノ処
同二十一年八月俄ニ三好豊前守義賢謀反ヲ企テ美馬三好ノ一族カタラヒ密々勝瑞屋形ニ押寄岩倉ノ城主三好山城守康長三千余騎ニテ取詰奉細川屋形持隆公ハ何心ナク竜音ニ御遊、処襲ヒ奉ルニヨツテ持隆公ヲ守護シテ
御近習ノ人々一方ヲ打破リ見性寺へ走リ入防戦叶ハス此処ニテ御生害也引続キ細川家旧臣芝原ノ城主久米安芸守義広一族ヲ始メ同意ノ味方ヲ招キ逆臣三好義賢ヲ討亡シ持隆公ヲ弔ヒ奉ラント其用意ヲナスノ処
義賢へ返リ忠者有ニヨツテ義賢早クモ是ヲ知ッテ阿波淡路讃岐三ケ国ノ一族部類ヲ集メ大人数ヲ以テ却ツテ芝原へ押寄一戦ニ久米義広ヲ初細川家ノ忠臣ヲ打破リ義廣ヲ打取ノ所ニ麻植因幡守持光モ細川家ノ旧恩ヲ報センモノト久米義広ノ談合ニ同意シ一族郎徒等ヲ召連三百余騎下郡へ赴クノ処
久米方ハ軍破レ義広打死ノ様子ヲ聞及ヒ途中ヨリ引返シ木綿内山ノ頂上ニ要城ヲ構へ細川家ノ残党ト共ニ防戦ノ用意ヲナスト雖事叶ハス岩倉三好山城守康長ノ大軍ニ取囲マレ奇謀ヲ巡ラシ数日籠城坊戦ヲナスノ処所詮叶フマシキヲ知テ軍勢追々ニ逃散リ頼ムへキ加勢モナクハ風烈シキ夜ニ紛レテ漸伊沢山ノ奥ニ遁レ川人備前守ヲ頼ンテ寓居ノ処
此事三好家ニ聞エ川人備前守本城上喜来大森ノ城モ攻落サレ備前守打死シテ一族郎徒散々トナル
此乱ニヨシテ三好家ノ祈願寺滝寺勢ヲ得テ願勝寺ヲ末寺トセントタクラミケレ共、快念応諾セス反ツテ滝寺ト義絶シテ一巳寺門ヲ守ル処三好家ヨリ懇々曖アルニヨツテ遂ニ和睦ス然レ共身ハ隠遁シテ讃州ニ行、跡ヲ弟子快弁ニ譲ル
于時天文二十二年五月八日也


細川持隆公が三好義賢氏の謀反により討たれ、その仇を取ろうとした麻植持光も意ならず、却って滅ぼされてしまった行となります。
その後に三好氏の本拠である「滝寺」が「願勝寺」を末寺としようとしたなどと、あからさまな仕打ちをしてきたなどが読めます。


とっとと書くんだニャ


これを本家「麻植氏系図」六十七代「持光」の段を引用いたします。



六十七
持光
麻殖因幡守長光
細川持隆公ヨリ一宇拝領ニ由テ持光ト改ム屋形持隆公ノ臣三好筑前守元長入道海雲ニ男子四人嫡子修理大夫長慶二男豐前守義賢三男宅攝津守冬康四男十河民部大輔一存卜云然外所二男義賢ハ父元長ヨリ持光ニ頼板東郡住吉明神ノ神務職ニ居置ト難モ神務職ヲキライ持隆公ノ近臣トナル名豊前守ト云
成長ニ従ヒ追々我偉増長シ大恩ヲ忘却シ持隆公ヲ軽蔑シツイニハ三好山城守康長ト持隆公ヲ討ン事ヲ謀リ潜ニ三千除騎ノ大軍ヲ勝瑞ニ押ヨセ来ルト雖モ持隆公此尠シモ知リ玉ハス此日ハ持隆公継カノ近臣而己ニテ龍音寺ニ御遊覧有之処三好ノ兵龍音寺ヲ取巻比時持隆公星相右エ門兵衛蓮池清助外継カノ近臣ニテ一方ヲ切破リ見性寺江走入自殺ス于時天文二十一年壬子八月十九日也
豊前守細川家数代ノ城地ヲ奪ヒ自カラ屋形ト号シ威ヲ國中ニ震フ屋形ノ分國讃岐伊豫淡路和泉河内攝津山城大和伊賀近江備中十一ケ國士三好家ニ仇スル者ハ恐ク討取ル故皆三好ノ猛威ニ屈伏ス
又此時芝原ノ城主久米安藝守三好ヲ亡サント同士ヲ募リ潜ニ佐野丹波守野田内蔵助 仁木日向守小倉佐助始メ細川屋形ノ残臣共ト謀リ二千除人勝瑞ニ押ヨセ戦フト難モ遂軍シ細川ノ忠臣皆討死ス
此時因幡守持光久米義廣同意シ豊前守ヲ討取リ細川数代ノ恩ヲ報セント一族郎等ヲ催シ出勢ノ所久米方不残敗軍シ伯父玄番充宗光モ討死ノ忠臣有依テ内山本城ニ人数ヲ引揚意城ス然ル所岩倉ノ城ヨリ討手来リ防戦数日ニ及フト雖モ遂ニ粮ツキ防事アタハス潜ニ敵ノ圍ヲヌケ伊沢山ノ奥ニ造レ川人備前守ヲ頼寄ルト雖モ備前守モ攻附ラレ一族郎等散々ニナル
此時天日鷲奪ヨリ数年ヲ経ル麻殖内山ノ霊地神社不残三好ノ為焼拂ハレ忽チ灰燼トナル
岩倉ノ城主三好山城守康長ハ美馬郡ノ領主トシテ他郡ヲ交エスト云フテ掠奪スル麻殖内山忌部ノ神領ハ八田山ヨリ宮内逸一円押領シテ美馬ノ郡内トス然リト難モ三好家忌部大社神威ヲ恐レ大社再建ヲ許スト雖モ三好モ天正十年王午八月十九日勝瑞ノ屋形ニテ主君ヲ殺セシ月日モ替ラス長曽我部元親ノ爲メニ敗軍落城シテ三好一類ノ輩悉亡果タル事業報ノ因果的然ノ道理後世逆臣ノ鑑トスへシ
持光父子ハ暫ク讃州丹生ノ山中ニ身ヲ潜ミ居タリシカ三好家亡減ノ時ヲ待得テ阿波江帰リ村雲兵太夫ノ存意ニマカセ内山ノ本城普請成就マテハ同姓麻殖壱岐守ヲ頼居富シ壱年両度ノ大祭日々三度ノ祭典ニハ必ス登山シ如例祭式執行ノ天正十三乙酉歳長曽我部元親ノ爲メニ忌部大社別当寺称宜巫女楽人ノ宅地迄不残焼拂ハレ再赤土ノ跡トナリ
此時麻殖ノ一族而己ナラス阿波國中ノ領主ハ不残元親ノ爲メニ討亡サレ領主ノ城ハ悉ク兵燹ノ爲メニ灰燼トナル因テ持光ハ讃岐尼切ノ城主近藤肥後守ハ叔父故是ヲ頼ミ一先尼切へ落ツクトイエトモ是又元親大軍ヲ将イ来タリ水道絶チ切リ厳敷攻立ツル故城中ノ士卒皆渇ニ及肥後守防戦利アラス遂ニ落城ス
持光再丹生ノ山中ニ身ヲ潜ミ朝暮忌部ノ事而己ヲ遺感ニ思ヒ遂ニ天正十五年丁玄七月十日残ス
持光法名 天正十五年丁亥七月十日
玉藻院殿秋月義翁大居士
行年八十九歳

持光妻法名
天正十八年庚寅八月四日
淨蓮院法山徵笑大師
行年八十五歳


麻植持光の最期について、碑文は天文二十一年(1552)、麻植氏系譜は天正十五年(1587)としておりますが今となっては糺す術もありません。
ただし、それ以前、多分天正の始め「麻殖内山ノ霊地神社」つまりは「忌部神社」が焼き滅ぼされ、

「天正十三乙酉歳長曽我部元親ノ爲メニ忌部大社別当寺称宜巫女楽人ノ宅地迄不残焼拂ハレ再赤土ノ跡トナリ
此時麻殖ノ一族而己ナラス阿波國中ノ領主ハ不残元親ノ爲メニ討亡サレ領主ノ城ハ悉ク兵燹ノ爲メニ灰燼トナル」

こうして忌部大神宮歴代大祭主である麻植氏と忌部の旧跡は、実質ここで滅んでしまいます。
細川氏滅び、三好氏滅び、長宗我部氏滅び(実質という意味ね)諸行無常、有為転変のうちに徳川、蜂須賀の世となり
「麻植の系譜(4)」
でも書きましたように、蜂須賀の徹底した工作により忌部神社本宮と、関連社寺、伝承等ことごとく抹殺されてしまいます。
その中で願勝寺は滅ぶことなく生き抜いてきたのです。
由来と伝承を隠したまま。


という訳で、藤原氏と深く関与し、源氏とも平氏とも繋がりを持つまったく稀有な存在である願勝寺系譜についても、これ以上追っても徳川以降皆様の興味を引きそうな目ぼしい記載も見当たらないため一旦ここで終了とさせていただきます。
また追記等あれば、項を改めて書かせていただきます。

END

あ〜終わった終わった、寝よーね〜。







少しだけ気になるのが願勝寺のすぐ近所の「西教寺」。
これまた近所の「安楽寺」も隠居寺として慶長14年(1609)に建立された浄土真宗の寺でありますが、

なぜかこんなものが伝わっているという。
これは続かないよ(笑)

2017年11月18日土曜日

麻植の系譜:願勝寺編(8)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)
麻植の系譜:願勝寺編(7)

 さて「願勝寺家系譜」に戻りますが、史料としては超一級でありますが、中途、皆様方の興味を引くような記載ではありません。
(手を叩いて喜ぶ人もいますけど(笑))
 で、説明なしで申し訳ないですけど二十代まですっとばします。

十三代忍海上人


了海上人上足の弟子なり俗姓は讃州香川郡笠居の人也

父真鍋又四郎祐宗下云平家一門下共に摂州一の谷合戦に一族真鍋五郎と同時討死し其妻源家の聞を恐れて阿波に来り一子宗千代了海上人に託し其身尼となり共行方も知れされは了海比孤を養育せしめ出家を逐させけるに適知識の大徳となり忍海上人の名四方に知らる年五十三にして生母に巡り遭ひ連帰り孝養を尽し天年を終へしむ国人皆其孝を称す

承久乱の頃麻植氏の一族阿波太郎入道淨心阿波三位信成鄉に同意し上方出勢して越後國願文山に塞を構へ閔東勢に打勝と雖東海東山両道の軍破れ将卒散々となるによつて三位殿伴類八千人を引て阿波國に婦り板東に大城を構へ四国勢を催す処北条左近将監四国へ渡り板東城を取囲む

依之一端防戰に及ふと雖終不叶千騎力原にて件類悉打死し信成郷も御腹召され阿川八郎佐々木中務等各落城して残らす

或は討たれ又戦場を遁れ身を隠せしものも皆尋出され夫々断罪行はるれ共願勝寺も落人を匿ひたりとて軍兵多く入来り寺中の僧俗を厳しく捕禁しむるの処

何者の所為にや本堂より火起り時に魔風吹て庫裏方丈護摩堂観音堂土蔵納屋物置の類残り少なく一日一夜三燒亡ふ衾也ける次第也

此時忍海上人は堂中にて水印を結ひたる故にや火に焼なから五体少しの捐ひもなく黒仏の如くなつて在りしを助け出し介抱を加へけれは終本快して後三年の寿を保ち貞応二年(1223)十月八日入寂す



十四代行智上人

俗性は麻植正径の次男也
幼年より忍海上人の弟子となり徳行世に知られたる智識なれは衆諸戮力して北条家に嘆訴し漸冤罪を解いて助成銀を請受諸方に勧化し僅十年の内に堂塔伽藍故の如く成就する事を得たり
且国守小笠原長房の祈願師となつて田畠千町の寄附に預り寺門の繁栄は反つて先代に超遇す京都より定肇力作の阿弥陀仏三尊の内の一軀を買得して帰て本尊とす
故に人猶其功を賞す


十五代行念上人

京師の人なり阿波へ来つて先住の譲りを受弘安四年(1281)蒙古襲來の時は勅命を奉て夷狄退治の祈祷をなす老京師に醍醐寺に偶居し終業を遂玉ふとなり

阿波国忌部郷木綿麻山山本にて読る歌は後世歌集に残り有けるを後人立石にほり付麻植の浜村にあり其歌に云
木綿麻山岩本菅の根によりて長き夜あかす浜千鳥哉



十六代行真上人


忌部大祭主麻殖親光の内室の弟にして北条遠江守在時の末子なり
鎌倉にて始禅宗なれ共後は真言門に入りて英知の聞へあるによつて親光求めて連帰り行念上人の跡を続かしめ当院の住職と定老年にしてご醍醐天皇の勅を奉し出家なからも四国中を巡回して大名小名多く南朝の味方たらしむ
貞和の比細川阿波守和氏か為に暗殺せらる



十七代浄真上人

俗姓は小笠原にして其長安と共に世に落魄して有けるか遂に出家となり行真師弟子となり在けるか
行真横死の後は当院の住職となる細川賴春公忌部十八坊にて長時の護摩をたかしめ大般若法華等購読仰付らるゝの時浄真上人も同しく武運長久の祈祷ら命せられ
是より阿波屋形細川公の祈祷寺となる


十八代真了上人


俗姓予州阿野家の人なり阿波へ来りて浄真師の弟子となり当院に住職す


十九代俊賀上人

始め讃州善通寺の弟子なりしか所縁を以て当院の弟子成遂に当寺の院主となる
俗姓は弘法大師の同姓佐伯助通の遠孫にして其国元山の住士佐伯弥六右衛門尉吉近の二子也と



二十代觉念上人

京師人也俗姓は平氏なりと雖二条家の猶子となりて仁和寺にて剃髪し東寺の灌頂院にて灌頂し且つ蘇悉地の法を受真言宗破戒無漸の僧を取正さんと四国に渡り先阿波国願勝寺を始として其他同宗の寺を仁和寺の末寺とし宗風を正しくするの処俊賀上人の依託によつ
て当院の住職となる
于時応永二十九年(1422)の春也阿波郡山の上の城跡に前城主大野氏の菩提の為大野寺を建立して大野平次信吉を始先代の先霊ら慰む
此時此地大野平次の霊魂人民を脳すによつて新在家なる西の岡にて平次信吉の墓を神に祝ひ平治権現と号し大野寺を別当と定む
其祭り怠りなきの故か平治信吉の霊反つて其地の守りとなれは郷民共に悦にて此神を崇信す、大野平次信吉と云は此郷の旧領主也しが割彊の論より事起り隣郷の城主伊沢氏の為に殺害せられ其地を失ひたる故に其怨念の残れども左も有へし後年其討たれたる処を平治村と云其谷川筋皆平治川原と号するも此権現の霊徳を恐れて也と云伝ふ


願勝寺歴代住職墓碑

そして、願勝寺歴代住職墓碑は、当然願勝寺にありますが、歴代本家(?)麻植氏はどこに祀られているかといえば。
麻植氏系図によりますと。


定光
麻殖太郎大夫
伊豫國岩屋ニ凶賊有唐戸丸ト云フ國民擾乱ス
久米山忌部氏族久米義基此賊ノ為ニ討タル定光憤リテ壱族共ニ此賊ヲ亡シ其首ヲ得ルト雖モ賊矢ノ為ニ疵ヲ受ケ久米山ニテ死ス
父荒人悲嘆ニ堪ス発心入道シテ名清高(たこ)ト云亡子定光ノ菩提ヲ弔ハント一寺ヲ建立シテ印部山定光寺菩提院卜号
是ヨリ此寺ヲ以テ麻殖氏歴世菩提所トシ墳墓地ト定

この「印部山 定光寺 菩提院」現在の一宇に現存しております。
 看板には「高天原係一族」と記載されております。
 麻植定光の名を以って「定光寺」。
印部山定光寺菩提院」と云うことは、ここも「忌部山」なのです。
 麻植定光以降の歴代忌部神社大宮司が祀られているのです。


うーん、猫の写真が尽きてきた

続く(けど次回が最後)

2017年11月12日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(7)

建礼門院(けんれいもんいん)

長らくお待たせいたしました。(待ってないって言われたらそれまでなんですけど😓)
死んでたんじゃないかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、いつものやつですのでご了承くださいませ。

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)

の続きとなりますが、今回は本題を外れて、前回書いた「安徳天皇生存説」ついて、ちょっとお遊びで書いてみました。
あくまで「願勝寺文書」「麻植氏系譜」などからの推測ですので、秋の夜長のお供として、鼻で笑って読んでみてくださいませませ。

さて、十二代了海上人の段において

帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前ノ国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ

と記載がありました。
では九州に安徳天皇伝説が残されているのかと調べれば

豊前国(ぶぜんのくに)
領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていた。

この豊前国の安徳天皇伝承は「福岡県 隠蓑(かくれみの)」にあり

寿永四年(1185)に壇ノ浦で入水したと伝えられる安徳天皇は、平氏の公卿方に伴われて門司の田ノ浦に上陸、松ヶ江を越え長野城主を頼り、二、三ヶ月隠れておられたが、城主が亡くなったので、英彦山に向かって城を出られたという。横代を通り隠蓑(当時は城野村)まで来た時、村は名も無き庵寺の屋根葺替えの最中であった。源氏の追手が追って来るのを知った村人は同情申し上げ、有り合わせの茅や藁などの蓑を持って天皇を御隠し申し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにし、それにより天皇御一行は逃れることができたといわれている。
祭行事ではその年の年少者を安徳天皇に見立てて、藁しびをかぶせて子供の災難を除き無事成長を祈る。その際、にぎりこぶし大の安徳天皇のお姿や御靴型を収めた藁すぼを御供えし、祭りが終わると氏子たちがそれぞれに持ち帰る。
春には先帝祭と呼ばれるおこもりも行なわれている。
                                北九州市

「安徳天皇御陵・隠蓑」

肥後国(ひごのくに)領域は熊本県の伝承地は「熊本県上益城郡」

壇ノ浦より生きてこの地に逃げてこられ、十七歳で崩御されこの地に埋葬さたそうです。その後 源氏から隠す為 宇土の花園の晩免古墳に移されたそうです。

伝安徳天皇御陵 (熊本県上益城郡山都町緑川)

安徳天皇陵(晩免古墳・花園陵墓参考地)

と、以上のように願勝寺文書にある九州、福岡・熊本にも安徳天皇伝説が残されております。
「隠蓑」の伝承などは、天皇一行はこの地よりさらに逃れたとあるにもかかわらず、「安徳天皇御陵・隠蓑」と記載されている不可解さ。

前回書きました、
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地だけでも以下の五箇所。
鳥取県鳥取市国府町岡益    安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉    安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山      安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎  安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免    安徳天皇陵(花園陵墓参考地)

これだけあるということは、ふつ〜に考えれば「安徳天皇生きてるよな〜」って感じですよね。
まともに平家の再興を企ててるなら、安徳天皇逝去は伏せ、生存ならば「死んだ」って情報を流しますよね〜。
特に複数の陵墓は、源氏の捜索を分散し、再興の時間を稼ぐ意味があると思います。


帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ



あくまで「願勝寺文書」と「麻植氏系図」から安徳天皇生存説を考えた場合、安徳天皇は治承2年11月12日(1178年12月22日)の生まれ。
廿一歳の年は数えで計算すれば1198年、これは土御門天皇即位の年でありますので、一つの推測ですが、後鳥羽天皇即位(寿永2年8月20日 1183年9月8日)は神器無き新帝践祚であるため、安徳天皇が神器を持って都に変えることができたならば、天皇位はまだ奪い返せると考えていたのではないでしょうか。
なにしろ

皇子御剣ヲ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納石立神後御劔ノ宮ト称ス奉祭式朝廷ノ古式ヲ用ユ
(麻植氏系譜より)

ですのでね。
あ、ご存知とは思いますが「石立山」というのは「剣山」のことですので、念のため。

それが土御門天皇即位となれば、もうひっくり返すことは不可能。
それがため、源氏の手の届かない(と考えた)九州へ赴いたとは考えられないでしょうか。

後鳥羽天皇

土御門天皇


もう一つ、安徳天皇生存説の傍証となるのが、三野町太刀野に残される「建礼門院五輪塔」であります。



伝承「建礼門院五輪塔」の由緒
 建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。徳子は、承安二年(1172年)高倉天皇の中宮になり、治承二年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永二年(1183年)七月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦二年(1185年)三月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院(左京区大原早生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、十二月十三日、享年六十歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。
 しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇は屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教盛)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を東に向かい三野町と琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。
 建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。
 平国盛(教盛)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御泰安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの八○○余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。
 平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉るの次第である。
                            平成十五年(2003)錦秋 三野町・三野町教育委員会

ま、ゆっくりしてくれたまえ

それと、何よりも確信に結びつくのが「建礼門院」に最後まで仕えていたとされる「阿波内侍」の存在です。

洛北大原 寂光院 建礼門院御自作阿波内侍張子の像
(戦前の絵葉書)

これまでも何度か書いてきたように、「阿波内侍」の母「紀伊局」こと藤原朝子は阿波忌部大祭主麻植正光の娘なのです。

もし、「建礼門院」が三野町太刀野まで来たとすれば、手引きをしたのは、当然「阿波内侍」の命を受けた阿波忌部一党。
ちょっと理由は書けませんが、個人的には「建礼門院」と「安徳天皇」は再会していたような気がするのです。
いや、そうだったらいいんですがねぇ。

とまあ、今回はちょっとお遊びで書いてみましたがいかがでしょうか。
次回から「願勝寺家系譜」に戻ります。