2017年1月29日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(15)END


まとめ:大宜都比売命の裔(1)
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まとめ:大宜都比売命の裔(13)
まとめ:大宜都比売命の裔(14)

さて、最終回です(涙)。
ではここで「鹿児島県神社庁」のサイトより
肝属郡肝付町鎮座の「西宮神社」のご紹介を。


創建年代不詳。旧記によれば、摂津国西宮大神の示現と云う。古棟札に、大宝二年十一月五日文武天皇の勅旨親直卿の御造立とある。
古棟札に、大宝二年十一月五日文武天皇の勅旨親直卿の御造立とある。

大宝2年は西暦でいう702年、摂津国西宮大神の示現とあるは、摂津「三嶋鴨神社」に相違なく、ここに「事代主神(ことしろぬしのかみ)」に並び「阿波咩命(あわのめのみこと)」も祀られていることより「大宜都比売命」は

阿波  →  摂津  →  安房  →  伊豆、関東

と移動したことが想定できるでしょう。

「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の経路は一筋縄ではいかなく

阿波(八重地(勝浦))→  摂津  →  安房  →  関東
阿波(香美)→  摂津  →  安房  →  伊豆

この項とは趣旨が違いますので、詳しくは次のテーマ以降となりましょうが、簡単に書いておけば、
伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)

主祭神の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる。『続日本後紀』の記述を基にすると、三嶋神の正后が阿波咩命(神津島の阿波命神社祭神)、後后が伊古奈比咩命神社にあたるとされる。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比咩命に比定される。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比咩命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった。これらに対して伊古奈比咩命神社社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比咩命」という独立の神格を見ている。神名の由来は明らかでないが、『日本三代実録』に見える遠江国の伊古奈神(所在不明)との関連が指摘される。 wikipediaより

この「伊古奈比咩命神社」発行の「道守(ちもり)」によれば
「伊豆大社御神威略記」部分の記載には
 事代主神と伊古奈比咩命の神名が記載され

 さらには「伊豆」の語源として

「伊豆国の伊豆は假字にて、巌 字書に巌清浄 神の義にて實は此大神の御名より出でたる國號なり。
とあるのを見ますれば、阿波国鎮座の「事代主神社」二社を連想いたします。


もう少し、マシな文章は書けんのかね

延喜式式内社 阿波國勝浦郡 事代主神社 
創祀年代不詳。
式内 事代主神社は、全国で阿波の二社のみであり、それ以外で事代主命の名が冠されるのは、奈良の鴨都波八重事代主命神社だけだ。
鴨都波八重事代主命神社の社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したそうである。
空と風(式内社(事代主神社)生夷神社 勝浦郡勝浦町)」より引用

こちらが「八重地」にある式内 事代主神社
ちなみに
明治初年時点で、全域が阿波徳島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている村は以下の通り。(43村3浦)
渋野村、本庄村、宮井村、飯谷村、沼江村、中角村、森村、鶴敷地村、星谷村、久国村、棚野村、中山村、横瀬村、与川内村、坂本村、黄檗村、福川村、藤川村、傍示村、瀬津村、福原村、野尻村、久保村、樫原村、田野々村、市宇村、八重地村、大谷村、方上村、西須賀村、大松村、論田浦、大原浦[2]、鶴岡新田、江田村、田浦村、新居見村、日開野村、中田村、中郷村、小松島浦、金磯新田村、田野村、芝生村、八多村、前原村


そして
阿波市市場町伊月字宮ノ本鎮座「延喜式式内社 事代主神社」
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。 徳島県神社誌より
ぐーたら気延日記「阿波市市場町 事代主神社」より


こちらが「齋(いつき)」つまりは「巌(いつ)」の事代主神社。
無論、式内社。
ここまで言わずとも、すべてに「阿波咩命」が並び祀られていることより、三嶋神の
由緒を想定することができると思うのです。

このようにして「阿波咩命」こと「大宜都比売命」は名を変えても、あるいは名を忘れられても、事代主命の本后として全国で祀られているのです。
ただし、何度も書いたように「事代主命」は一人ではありませんので「ある時期」の事代主命の本后としてだということに注意願います。

そして、その本家本元の末裔は
      この山頂にも
      ここや
      ここにも
      祀られ
生きている・・・


まとめ:大宜都比売命の裔(15)END



おまけ



2017年1月2日月曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(14)

謹賀新年、賀正、新年のお慶びを申し上げます、迎春
と、年賀状ソフトから新年のご挨拶を列挙してみましたので、ひじょーにめでたいと思われます。(笑)
本年もよろしくお願いします。

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
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まとめ:大宜都比売命の裔(4)
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まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(13)

前回の
また太田道灌が江戸城をきづきし時、安房の洲崎の神を移し祭りて神田明神とたたえたりと、永亨記に見えたり
の部分の追加資料で「永亨記」該当箇所を群書類従より。

続いては「三嶋鴨神社」の御祭神について
祭神
現在の祭神は以下の2柱。
大山祇神 (おおやまづみのかみ)
『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという。
「津の国の御島」とは摂津国三島(現 高槻市三島江)を指すとされ、この記述によれば大山祇神社(愛媛県今治市)の祭神は元々は当地の神とされる。なお、この「大山積神」は記紀の記す大山祇神と別の神格であるという指摘もある

事代主神 (ことしろぬしのかみ)
事代主神は鴨氏の氏神とされ、当地に鴨氏の進出が背景にあるとされる。
『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。
これはwikipediaより

御由緒
・創建: 仁徳天皇は河内の茨田まんだの堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済くだらよりここ摂津の「御島」に、大山祇神おおやまづみのかみをお迎えになりました。
「御島」とは淀川の「みしまえ(三島江)」にある川中島のことで、このあたりは淀川でもっ とも神妙幽玄な景観をもっていました。
ここは古代の「玉川湖沼」(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあ って、島は淀川本流に、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、玉川の土砂をもって、できたゆえに「御島」とあがめられたのです。
・当社はもとは、「御島(三島)の社」とあがめられ、淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました。
・豊臣秀吉が淀川右岸堤防を築いたとき、それまで川中島にあった当社を三島江村の中にお遷ししました。
 三嶋鴨神社 公式ホームページより

これを大正14年の太田亮著「摂津」より見ますと

予想通りと言いますか、御祭神は「大山積神」と「鴨御祖大神(かものみおやのおおかみ)」となっております。
つまり伊豆三嶋大神が事代主であるならば三嶋鴨神社の「鴨御祖大神」は事代主であるのです。(この辺り、ひじょーにわかりにくいと思うので、ごめんなさい)
で、さらに思い出していただきたいのが「阿遅鉏高日子根神」が鴨族の祖とされていることと
で出させていただいた、「岩肩彦」あるいは「笑子岩(えびすいわ)」の伝承があります。




 神領村高根山に人面嶽といふ処あり
 数十丈の大巖を人面のかたちにきざみたり 目鼻口眉其あさやかに上作なるる見る内に語を問ふのと思ふどおりにて春のうららこのなる日にてみると笑ふめんにみえ天上自然のわざと思へとも必神作又は上代の作なるへし 是等の作者にて岩肩彦と名を伝えし


 これは粟飯原家の守護神であり、大粟家文書によれば、これは「味鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)命」であるというのです。神領村高根山に人面嶽といふ処あり
でありますし

東みよし町に鎮座まします「鴨神社」については



「阿波志」巻之六に曰く



「事代主神孫鴨王是成」
と記載されているほどの神社なのです。
なお、此の神社裏に控える丹田古墳については大師匠の
「丹田古墳は阿遅鋤高日子根神の神陵」
など参照ください。
ただし前後の記事も読んでないことには、なかなか歯が立ちませんぜ(笑)

字が多いよぉ

さらに事代主については「日本書紀」に「阿閇臣事代」についての記載があり、なんと「任那」まで出仕しているではありませんか。(下図参照)
ちなみに「阿閇氏」については「阿閇」、「阿閉」と「阿倍」等複数の記載方法があり、いわゆる互いの勢力を利用した擬制氏族であり(擬制氏族はほかにも血縁関係のない所属の部民のなかから優秀な人物が氏人に昇格し氏族に加えられることもあったとされています)単純に一氏族のみならず複数の氏族である可能性が考えられます。
此の場合は「阿閇臣事代」が任を帯びて「任那」まで赴いており、「阿閇氏」が重要な地位である氏族だということが認められます。

そして「阿府誌」に曰く


阿部氏
名西上浦町浦方ト云家有当家元祖成務
天皇朝高志國造阿閇臣祖屋主思命三世孫市
命定賜國造高志此地ノ郷名也当象其今徹
リ式内神社ノ部ニ詳ナリ但シ家始リ二千年
ニ及フ阿閇ハ阿部也今ハ阿部阿倍等同姓也

と「阿閇氏」が名西に一氏を構えていたことも確認できるのです。
「鴨王」の地と「味鉏高日子根命」の人面石、事代を輩出する「阿閇氏」の痕跡、さらに付け加えるならば「粟嶋史」より「粟島(善入寺島)の伝承として下図、記載されております。
解釈はいろいろできると思いますが「事代主命を道ずれにして阿波に来た」のではなくて「阿波に帰ってきた」のではないかと思う、今日この頃なのです(笑)
そしてこの時、「忌部の祖」と「大宜都比売命の一族」が手を組んだのではないでしょうか。
続く(けど次が最終回です)

あ、念のため再度書いておきますが
鴨族の祖である阿遅鉏高日子根神が事代主神なのですよ(ワタクシ的には)。
それと大国主命も何度も書いておりますように尊称であり階位でありますので当然一人ではございません。
分かっているだけでも
第七代 八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)
第八代 味鉏高日子根命(あじすきたかひこね)
第九代 鳥鳴海神(とりなるみのかみ)
となりますが、本題ではありませんので割愛いたします。

年末までに出そうと思ってたんですが、こんなになってました(笑)