2017年10月21日土曜日

麻植の系譜:願勝寺編(4)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
の続きです。


ちょっと先を急ぎますので、今回も翻刻を載せるだけでお願いします。
(少しだけ説明もありますけど)

六代智由上人





幼名は虎童と云讃州山田郡殖田上村の人なり
父は殖田高麿と云母は阿波忌部石勝の女なり幼にして父に後れ母諸共家難によつて阿波へ引取り石勝の養ひを受るの処七歳にして復母に後れ孤となる
薄命故外祖父石勝乞ふて福明寺の弟子となし名を智由と改生得英敏にして童歳の時内外両典に通し且つ上京して空海上人の上足智泉法師の弟子と成真言律を兼学す
故に空海上人四十二の厄払として京都西加茂の宮に参籠の節一仏を自作し祖神本地仏と崇めて祈念しけるに此木像遥阿波の忌部由布山に飛渡る其仏より光明を出して南海四州を照す
智泉法師追来り此地我師の由縁なりと一寺を建つ所謂神光寺是也、後空海上人も阿波に来り当福明寺に留錫して護摩堂を立て本尊不動明王を自作爾来真言密宗に改むと云
其比空海上人阿波と讃岐中山なる大滝の峯に登り国土安全の祈をなすの処に不思議の老翁忽然と現れ我是汝が遠祖天忍日命の神使也と空海曰其神跡いづれなるや
翁曰即此処也と古塚を教へて其形の古き蟇蛙と変して古塚に入て身を隠す扨こそ故あらんと此処に草庵を構へて其霊を祭る其草庵後に大滝寺と改其神を西照権現と号す
智由の弟子智信坊を以て此寺の法燈を続かしむ此時忌部神社大祭主麻植の由良淵空海の名筆を聞及び忌部神宮の鳥居に大額を掲て此書を空海上人に乞ふ上人も亦応諾して我望む所なり。
抑々比社は我祖先由縁の神なりと快然として書す、時の国司藤原道雄西照宮に神田を寄附すと云

青字にしたところがいわゆる「西照神社」開基の経緯と言うわけですね。
で、空海の祖神が「天忍日命」と記されており、天忍日命→→→大伴室屋→大伴連談、で佐伯日奉造は大伴氏(天忍日命の後裔氏族)と同祖で九代(か?)裔が空海となり、ちょっと面白いんですが、今回は華麗にスルーいたします。

七代智鑑


俗姓阿波郡秋月郷の人なり
父を服部良麿と云十四才にして先住智由を師とし出家を遂受戒の上都に上り三輪、法相、天台、真言、其宗々の奥義を探り其淵底を極め帰国の後は国司従五位上菅原清公の祈念師とな春秋八十二才にして天元四年三月十日寂す
此智鑑師は京都醒訓寺の聖宝僧正と知己たるによつて僧正を阿波へ迎へ新寺新仏の為め供養と号し大会をなし時の国司の帰依僧となる


八代智光

       

俗姓は忌部高光の庶弟なり
福明寺の住職となつて兄高光の為に承平四年伊予椽藤原純友の逆乱鎮撫の祈をなし逆徒滅亡の後は忝くも朝延へ徴庸せられ御震感の賞典に予り阿波上郡にて方十町の采地を賜ひ僧正に昇進入天曆四年高光の長子定光子州の逆徒唐戶丸退治の頃賊矢に当り久米山にて病死す
此時父高光悲に堪へす刺髪して仏門に入亡子定光菩提の為智光を開起として一寺を建つ定光寺と号し忌部麻殖氏歴世菩提寺と定む
是迄は麻殖氏数代神官務の職掌と云且つ此麻殖郡忌部郷内は三里四方の神地なれは民家も皆神戸なる故仏法を信するの徒有りと雖自己内分の皈依なりしに此時より公然として仏葬を営み僧尼を供養し追福作善の祭りをなす民家も亦是に仿ひて追々仏寺繁栄す是皆智光の勧化也
天喜四年七月四日寂す


九代智覚



俗姓は忌部氏人麻殖正種二子也
此時人皇六十三代冷泉院の朝安和二年已已九月十九日忌部十八坊を定め忌部氏族三十六家の社司ら置き未代不易の憲法を立大祭主麻殖基光勅命を奉して忌部神社祭○奪厳重に執行なふ時福明寺智覚読経の長老たりしが、爾来大祭毎に福光寺へ福明寺より出勤して忌部神社法楽の例となる


十代德光

       

忌部大祭主信光の二弟なり
初め福光寺住持の所我名徳光にして福光寺に住する時は徳光と福光と其光り争ふ事あらんかと福光寺は徒弟随伝坊に託し其身は麻殖下郡なる射立の郷に一寺を造立して我名を其儘に徳光寺と云
承徳二年戌寅年八月大洪水にて忌部の摂社末社共多く山崩れして大川に流失し川筋処々に留る。
其里人流宮を其儘其処に社を定めて祝ひ祭る徳光上人彼地処々の神社に一寺を建て其神を祭り法楽の経を説誦し其神意を慰め奉る是下郡なる川筋処々神宮寺の元由也



すいません、ほとんど解説なしで十代まですっ飛ばしました。
けど読めばほぼ、分かるんじゃないでしょうか。

さて次回から「願勝寺歴代系譜」ある意味、深淵に入って参ります。
心穏やかにしてお待ちください。
続く

急ぐんだニャー

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