2017年11月12日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(7)

建礼門院(けんれいもんいん)

長らくお待たせいたしました。(待ってないって言われたらそれまでなんですけど😓)
死んでたんじゃないかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、いつものやつですのでご了承くださいませ。

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)

の続きとなりますが、今回は本題を外れて、前回書いた「安徳天皇生存説」ついて、ちょっとお遊びで書いてみました。
あくまで「願勝寺文書」「麻植氏系譜」などからの推測ですので、秋の夜長のお供として、鼻で笑って読んでみてくださいませませ。

さて、十二代了海上人の段において

帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前ノ国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ

と記載がありました。
では九州に安徳天皇伝説が残されているのかと調べれば

豊前国(ぶぜんのくに)
領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていた。

この豊前国の安徳天皇伝承は「福岡県 隠蓑(かくれみの)」にあり

寿永四年(1185)に壇ノ浦で入水したと伝えられる安徳天皇は、平氏の公卿方に伴われて門司の田ノ浦に上陸、松ヶ江を越え長野城主を頼り、二、三ヶ月隠れておられたが、城主が亡くなったので、英彦山に向かって城を出られたという。横代を通り隠蓑(当時は城野村)まで来た時、村は名も無き庵寺の屋根葺替えの最中であった。源氏の追手が追って来るのを知った村人は同情申し上げ、有り合わせの茅や藁などの蓑を持って天皇を御隠し申し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにし、それにより天皇御一行は逃れることができたといわれている。
祭行事ではその年の年少者を安徳天皇に見立てて、藁しびをかぶせて子供の災難を除き無事成長を祈る。その際、にぎりこぶし大の安徳天皇のお姿や御靴型を収めた藁すぼを御供えし、祭りが終わると氏子たちがそれぞれに持ち帰る。
春には先帝祭と呼ばれるおこもりも行なわれている。
                                北九州市

「安徳天皇御陵・隠蓑」

肥後国(ひごのくに)領域は熊本県の伝承地は「熊本県上益城郡」

壇ノ浦より生きてこの地に逃げてこられ、十七歳で崩御されこの地に埋葬さたそうです。その後 源氏から隠す為 宇土の花園の晩免古墳に移されたそうです。

伝安徳天皇御陵 (熊本県上益城郡山都町緑川)

安徳天皇陵(晩免古墳・花園陵墓参考地)

と、以上のように願勝寺文書にある九州、福岡・熊本にも安徳天皇伝説が残されております。
「隠蓑」の伝承などは、天皇一行はこの地よりさらに逃れたとあるにもかかわらず、「安徳天皇御陵・隠蓑」と記載されている不可解さ。

前回書きました、
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地だけでも以下の五箇所。
鳥取県鳥取市国府町岡益    安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉    安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山      安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎  安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免    安徳天皇陵(花園陵墓参考地)

これだけあるということは、ふつ〜に考えれば「安徳天皇生きてるよな〜」って感じですよね。
まともに平家の再興を企ててるなら、安徳天皇逝去は伏せ、生存ならば「死んだ」って情報を流しますよね〜。
特に複数の陵墓は、源氏の捜索を分散し、再興の時間を稼ぐ意味があると思います。


帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ



あくまで「願勝寺文書」と「麻植氏系図」から安徳天皇生存説を考えた場合、安徳天皇は治承2年11月12日(1178年12月22日)の生まれ。
廿一歳の年は数えで計算すれば1198年、これは土御門天皇即位の年でありますので、一つの推測ですが、後鳥羽天皇即位(寿永2年8月20日 1183年9月8日)は神器無き新帝践祚であるため、安徳天皇が神器を持って都に変えることができたならば、天皇位はまだ奪い返せると考えていたのではないでしょうか。
なにしろ

皇子御剣ヲ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納石立神後御劔ノ宮ト称ス奉祭式朝廷ノ古式ヲ用ユ
(麻植氏系譜より)

ですのでね。
あ、ご存知とは思いますが「石立山」というのは「剣山」のことですので、念のため。

それが土御門天皇即位となれば、もうひっくり返すことは不可能。
それがため、源氏の手の届かない(と考えた)九州へ赴いたとは考えられないでしょうか。

後鳥羽天皇

土御門天皇


もう一つ、安徳天皇生存説の傍証となるのが、三野町太刀野に残される「建礼門院五輪塔」であります。



伝承「建礼門院五輪塔」の由緒
 建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。徳子は、承安二年(1172年)高倉天皇の中宮になり、治承二年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永二年(1183年)七月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦二年(1185年)三月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院(左京区大原早生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、十二月十三日、享年六十歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。
 しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇は屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教盛)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を東に向かい三野町と琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。
 建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。
 平国盛(教盛)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御泰安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの八○○余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。
 平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉るの次第である。
                            平成十五年(2003)錦秋 三野町・三野町教育委員会

ま、ゆっくりしてくれたまえ

それと、何よりも確信に結びつくのが「建礼門院」に最後まで仕えていたとされる「阿波内侍」の存在です。

洛北大原 寂光院 建礼門院御自作阿波内侍張子の像
(戦前の絵葉書)

これまでも何度か書いてきたように、「阿波内侍」の母「紀伊局」こと藤原朝子は阿波忌部大祭主麻植正光の娘なのです。

もし、「建礼門院」が三野町太刀野まで来たとすれば、手引きをしたのは、当然「阿波内侍」の命を受けた阿波忌部一党。
ちょっと理由は書けませんが、個人的には「建礼門院」と「安徳天皇」は再会していたような気がするのです。
いや、そうだったらいいんですがねぇ。

とまあ、今回はちょっとお遊びで書いてみましたがいかがでしょうか。
次回から「願勝寺家系譜」に戻ります。


0 件のコメント:

コメントを投稿