2017年12月31日日曜日

異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!(上)

自分で予告してたんですから、しゃーないっすね。
「異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!」

結論「わかりません」。





ああああああああああ、ではもうちょっと書いてみます😓
土御門天皇


土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。

後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(実は法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。

建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇。

京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。

承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。その地は、現在の阿波市御所など諸説あり、特定されていない。

寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。
wikipedia

その地は、現在の阿波市御所など諸説あり、特定されていない。

とあり
土成町宮川内相婦には土御門上皇終焉の地と言われる「御所神社」があります。






また鳴門市大麻町池谷に鎮座する「阿波神社」には


阿波神社(あわじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町池谷に位置する神社。旧県社。
土御門天皇は承久の乱後、承久3年(1221年)に土佐国へ遷幸、貞応2年(1223年)にはさらに阿波国に移り、約9年後の寛喜3年(1231年)に崩御し、その行在所は守護所に近い勝瑞(藍住町)に比定する説がある。人々は土御門天皇火葬塚の北に通称「天皇さん」と呼ぶ土御門天皇社を奉祀、『阿波志』には「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」とみえる。その後、明治8年(1875年)に丸山神社と改称(鳴門市史上)。
 土御門天皇火葬塚
『阿波志』には「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」とみえる。
と、あるが。


鳴門市大津町大代には「天皇神社」が存在し



 土御門院天皇が祀られていることはあまり知られていない。

さらに「土成町史」より引用すれば

帝王略記
寛喜三年十一月、北条の臣七条・坂東討手として御所に馳行ふ。守護の士防戦の内、帝王細尾より宮川内谷深く奉忍御運拙く思召、勿体なくも十二日辰時御覚悟被為遊而、御年三十七にて崩御す。御陵御所の南辺十五日寅時奉葬。

阿波日記
承久三癸巳年、北条泰時土佐国へ流す。旛多郡蕨岡に在給う。御年二十七歳の時なり。貞応二年阿波原田村に移り在す。其後帝阿波に遷都せし事鎌倉へ聞え討手の大将北条遠江守朝時、坂東板西の武士百二十二騎先陣七条孫太夫賢忠原田村へ押し寄せ、帝守護の侍と相戦、帝は宮河内深く落行御生害あり、北面の侍二人間野右近、宇野左近峠にて自害す。此地ウノタヲと云う。

自害説については
徳島県史第一巻第三編第八章にも
上皇が自害せられたことは、隣接した柿原の藤原師光の四子広永が田口成良に襲われ、広永は敗れて宮川内谷に逃れて自殺した。この戦と混同したとの説がある。

とあり、武士でもない上皇が自害、特によく言われるところの「切腹」などとは到底考えられないのが事実でしょう。

ならば上皇が薨去されたのはどこで、奉葬されたのは実際にはどこなのか、また火葬されたのであれば、いったいどこであるのか疑問になるではありませんか。

土佐へ流されたのは確実、土佐から阿波に遷宮されたのも確実。
ルートについては数説あるようですが、ここ阿南市新野町を経由したのは確実。


上写真は新野町「御所神社」

そして、薨去された場所については、ほぼ全ての史料が「阿波にて薨去」と記載されている中、これだけが違っておりました。

出典「大日本国史料」


「土御門上皇阿波池谷ノ行在所に於テ、崩御アラセラル」

これが「系図簒要」にかかるのか「華頂要略」にかかるのかが不明ですが、「華頂要略」全170巻一応目を通したつもりなんですが、該当箇所が見当たらず、多分見過ごしたと思うんですが、もう一度読み直すのもしんどいので保留にしてあります(涙)。

最近体力が続かないんで、一休み

この記載がいかに異様であるかわかっていただけるでしょうか。

最初の方で書いたように池谷に残っているのは「土御門天皇火葬塚」。
「行在所(あんざいしょ)」であるとは記録されておりません。

行宮 - Wikipedia
行宮(あんぐう(かりみや))とは、皇帝もしくは天皇の、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事を言われる。他に行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう)とも。

そんな疑問をもって調べている時に出てきたのがこれ。

無論、この文書が全ても疑問を解決してくれたわけではなく、却って疑問を深めるタネだったのですがその中にこのような記載を見つけました。


「早淵の御墓に就てー土御門上皇御火葬場候補地」




「異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!(下)」に続く。
へっへっへっ。
あっ、妙に引っ張ったら来年になってしまうぅぅぅぅぅ。

それでは皆さま良いお年を。







4 件のコメント:

  1. あけましておめでとうございます。
    土御門上皇の宮すら見つからない状況が逆にそそります。
    初詣で建嶋神社行って来ました。

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    1. あけましておめでとうございます。
      >土御門上皇の宮すら見つからない状況が逆にそそります。
      そうなんですよ。
      みんな、説ばっかりで確固とした史料が出てこないんで、混ぜてやろうと思って書き出しました(笑)
      建嶋さんはGoogleMapとかで見ると、本当に「嶋」みたいで、いろいろ妄想できて面白いです。

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  2. 私の住んでる中田近辺は建島とか御懸神社や蜂須賀別邸とか豊国神社とか
    まだ掘り出せてないものいっぱいあるんですけど
    明治以降被差別部落としてアンタッチャブルになった経緯があります。
    私の親の世代とかはとにかく立ち入ってはいけないレベルの怖いところという認識

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    1. アンタッチャブルにせざるを得なかった理由があるんでしょうね。
      まあ、書けないですけど、そんなトコけっこうありますよね。

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