2018年5月13日日曜日

倭の神坐す地(4)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
より続けます。

倭の神坐す地(3)で「大国魂(大国玉)」の名がつく神社を下の様に示したわけですが

大國魂神社(武蔵国) - 東京都府中市鎮座。武蔵国の総社。
大國魂神社 (いわき市)(磐城国) - 福島県いわき市鎮座。
大国魂神社(大黒さん)- 堺市堺区 開口神社の境内外社。
大国玉神社 (桜川市) - 茨城県桜川市
大国玉神社 - 三重県多気郡。(式内社)
大国玉神社 - 長崎県壱岐郡。(式内社)
大和大国魂神社 - 兵庫県南あわじ市
尾張大国霊神社 - 愛知県稲沢市
島大国魂神社 - 長崎県対馬市。(式内社)
会津大国魂神社 - 福島県会津美里町。

皆様もよくご存知の様に「倭大国魂神」を祀る神社として挙げられるのが「三社」

まずは言わずと知れた「大神神社(おおみわじんじゃ)」
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称を「三輪明神」・「三輪神社」とも。
wikipedia
大神神社は古墳時代以前、纒向一帯に勢力を持った先住族が崇敬し、諸説あるが、代々その族長により磐座祭祀が営まれたとされる、日本でも古い神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。
旧来は美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれた。
三諸山そのものを御神体(神体山)としており、山中には上から、奥津磐座(おきついわくら)、中津磐座(なかついわくら)、辺津磐座(へついわくら)があり、本殿をもたず拝殿を江戸時代4代将軍徳川家綱によって再建された。拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。
中略
全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
wikipedia
念のためこれもwikipediaより「大神神社」「三輪神社」「美和神社」の一覧を記載すれば
大神神社 (栃木県栃木市) - 下野国都賀郡の式内社
大神神社 (愛知県一宮市花池) - 尾張国中島郡の式内社(名神大社)
大神神社 (岐阜県大垣市) - 美濃国多芸郡の式内社。
大神神社 - 遠江国浜名郡の式内社
大神神社 (奈良県桜井市) - 大和国城上郡の式内社(名神大社)「大神大物主神社」
大神宮社(京都府相楽郡南山城村)
大神神社 (岡山県岡山市中区) - 備前国上道郡の式内社
三輪神社 (入間市) - 埼玉県入間市中神
三輪神社 (三郷市) - 埼玉県三郷市高洲
三輪神社 (飯能市) - 埼玉県飯能市高山
三輪神社 (名古屋市) - 愛知県名古屋市中区大須
三輪神社 (津幡町) - 石川県河北郡津幡町北中条
三輪神社 (岐阜市) - 岐阜県岐阜市三輪
三輪神社 (揖斐川町) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪
三輪神社 (高槻市) - 大阪府高槻市富田町
三輪神社 (三田市) - 兵庫県三田市三輪
三輪神社 (総社市) - 岡山県総社市三輪1347(百射山神社に合祀)
美和神社 (群馬県桐生市宮本町) - 上野国山田郡の式内社
美和神社 (山梨県笛吹市御坂町) - 甲斐国の国史見在社
美和神社 (長野県長野市三輪) - 信濃国水内郡の式内社
美和神社 (岡山県瀬戸内市長船町東須恵) - 備前国邑久郡の式内社
美和神社 (岡山県瀬戸内市長船町福里) - 上記式内社の参考地
となりますが、これらの御祭神は
大神神社 (栃木県栃木市)は「倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)」
大神神社 (岐阜県大垣市)は「大物主櫛甕玉命」
などとなっておりますが無論、徳島市国府町の「大御和神社」は無視されております(笑)

御祭神 大己貴命(大国主命)
延喜式内小社で「府中の宮」と親しまれている。
王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となり、その国府の鎮守として、 累代国司の崇敬が厚かった社である。
本社は国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし 神徳により印鑰大明神とも称したと伝えられる。「印鑰」即ち国司の宮印と諸司の蔵のかぎが紛失せぬように祈り、又神社の中に保管したという。
明治三年大御和神社と奉称し同五年郷社に列せられ昭和十一年県社に昇格した。
ということで、御祭神が「大己貴命(大国主命)」社名が「大御和(おおみわ)」であること、また先に紹介した土成町の「奇玉神社(薬王子神社)」から移されたとの説もあることより、実際は「大物主」が祀られていることがわかります。

話を戻します。
そして先ほどの「大神神社(おおみわじんじゃ)」の境外摂社に「率川神社(いさがわじんじゃ)」という神社があるのですが。




この率川神社末社の住吉神社と春日神社の合間に鎮座するのが、これも有名な「率川阿波神社」


摂社 率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)
御祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日 6月17日
大物主大神の御子神さまである事代主神さま(恵比須さま)をお祀りし、『延喜式』にも見える古社。
社伝によれば光仁天皇の宝亀年間(770~780)に藤原是公(ふじわらこれきみ)が創祀したと記されています。当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが時代と共に衰微し、明治期には小祠を残すのみとなりました。その後、大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し、昭和34年の率川神社境内整備に伴い末社の春日社・住吉社と共に現在の位置に遷座となりました。
奈良市最古の恵比須社であり、毎年正月4日の宵戎(よいえびす)、翌5日の本戎(初戎)には、商売繁盛を願う多くの参拝があります。
率川神社公式HPより

とありますが、社殿前の立て札には

社伝によると宝亀二年(七七一)藤原是公が、夢のお告げにより阿波國より勧請したと伝えられています。
とあるのが見ていただけると思います。
ちなみに、この「藤原是公」の祖父は「藤原武智麻呂」であります
   藤原是公

では「奈良市最古の恵比須社」が何故に「阿波國」から勧請されなければならなかったのか。

通常「恵比寿」は「蛭子」なのか「事代主神」なのかとの議論もありますが、いずれにしても「蛭子」ならば兵庫県西宮市の「西宮神社」、「事代主神」ならば大阪市浪速区の「今宮戎神社」等でなければならないのが「阿波國」。
そして「大物主大神の御子神」であると説明されているのです。

ならば「事代主神」は阿波にいたのか?
「大物主神」とは何なのか?
ちょっと短めになりましたが「続く」とさせていただきましょう(笑)。
(あ、あと2回くらいね)


日々精進中(笑)





2018年5月4日金曜日

倭の神坐す地(3)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
からの続きです。

さて、「倭の神坐す地(1)」で「大物主」について古事記、神代巻 大国主の段を引用いたしました。

故、爾れより、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の小名毘古那神は、常世国に度りましき。
故、其小名毘古那神を顕はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曽富騰といふぞ。此の神は、足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり。
是に大国主神、愁ひて告りたまひけらく、「吾独して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の国を相作らむや。」とのりたまひき。
是の時に海を光して依り来る神ありき。其の神の言りたまひけらく、「能く我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らず国成り難けむ。」とのりたまひき。
爾に大国主神曰しけらく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。

大国主神(大己貴命)とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れと、自分を祭るよう希望した。これが御諸山の上に坐す神である。
との話でしたよね。
この話について「日本書紀」の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとあります。
つまり、「大物主」は「海を渡ってきた神」であるということなのですね。

さて、話はちょっと変わりまして、皆さまよくご存知の通り、美馬市には「倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)」という神社が鎮座しております。





由緒は不詳だが、平安時代の『延喜式』神名帳の美馬郡条にある[倭大国玉神大国敷神社二座]に比定される古社で、大国魂命・大己貴命を主祭神とする。その御神像は、高さ一尺ほどの剣を杖きて立つ神人の木像で、厨子の背後には、[大島郷倭大国魂神社]の墨書があると言う。小笠原氏が崇敬した神社でもあった。『日本書紀』の第10代崇神天皇紀6年に「天照大神・倭大国魂、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、『延喜式』で[倭大国魂]を冠する神社は他になく、[倭大国魂]との強い関係性が窺える。境内には、古墳時代後期(6世紀)の3基からなる大国魂古墳群が築かれ、開口する横穴式石室(全長4.6m、高さ2.2m)をもつ1基が「大国魂古墳」で、段の塚穴型石室の中でも最も古い特徴をもつと考えられている。神社北側の吉水には[吉水遺跡]があり、弥生後期の住居7軒と東西9間・南北3間の掘立柱建物跡等が発掘されている。今後の周辺域の発掘によって、「倭大国魂神社」を成立させた集団の様子が明らかになってくるであろう。

とあります。
主祭神は「大国魂命」つまり「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」でありますが、この神についてはwikipediaにも

倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、日本神話に登場する神である。日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神である。
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
同年8月7日、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。
この神の出自は書かれていない。大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があることから、倭大国魂神は大国主神と同神とする説がある。『大倭神社注進状』では、大己貴神(大国主神)の荒魂であるとしている。しかし、本居宣長の『古事記伝』では、この神を大国主神と同一神とする説を否定している。神名から大和国の地主神とする説もある。

と、この程度の記載しかありません。
そして「大国魂(大国玉)」の名がつく神社は全国に見られます。
列挙すれば
大國魂神社(武蔵国) - 東京都府中市鎮座。武蔵国の総社。
大國魂神社 (いわき市)(磐城国) - 福島県いわき市鎮座。
大国魂神社(大黒さん)- 堺市堺区 開口神社の境内外社。
大国玉神社 (桜川市) - 茨城県桜川市
大国玉神社 - 三重県多気郡。(式内社)
大国玉神社 - 長崎県壱岐郡。(式内社)
大和大国魂神社 - 兵庫県南あわじ市
尾張大国霊神社 - 愛知県稲沢市
島大国魂神社 - 長崎県対馬市。(式内社)
会津大国魂神社 - 福島県会津美里町。
と、なるわけですが、式内社で「倭」を冠する神社は当然「徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3」に鎮座する「倭大国魂神社」一社であるわけですね。
しかしながら、やはりwikipediaに記載の「倭大国魂神社」について

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

倭大国魂神社
倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は、徳島県美馬市にある神社である。日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國魂神大國敷神社二座の論社である。
創建年代
不詳。しかし、崇神天皇6年に皇居内より当地に移遷されたと見る向きもある。
との記載はちょっと飛ばしすぎじゃないでしょうか(笑)

それでは、「倭大国魂神」はどういう神だと問うても
この神の出自は書かれていない
わけなのです。
しかし、「大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があることから、倭大国魂神は大国主神と同神とする説がある」ことは憶えておかなくてはならないでしょう。

この辺りを別の資料をかき回してみました。
例えば「岡本監輔」の「名神序頌」ですが

「大国玉即大国主一名」の記載を見るように「大国主」の「荒魂(あらみたま)」であるとの結論となっております。
次に「平田 篤胤(ひらた あつたね)」の「古史伝」に興味深い記載がありました。
山上憶良の長歌を例とし

山上憶良が遣唐使として出立する多治比広成に対して詠んだ歌。

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高照らす 日の朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて 大御言 [反云 大みこと] 戴き持ちて もろこしの 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり 領きいます もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ

「もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には」

此の部分ですが
平田篤胤、「古史傳」に曰く。

「荒魂大國魂神は、殊に外ツ國の事に預かり給ふ、と云傳のありて詠る事と聞こえたり」

つまり「倭大国魂神は外国に行って治めていた事がある神なので遣唐使の船の舳先に祀られているんですよ」と言っておるのです。


古史伝 二十五巻より

つまり「海から帰ってきた神」であるわけですね。
1.「崇神天皇6年の条」の宮中に祀られていた「倭大国魂神」を宮の外に祀り、祟られたために「大物主神」を祀ることになった件
2.「海から帰ってきた神」である件、上写真の文中にも「和魂大国主神、早く外國に渡御して還り給ひ」とある。
等の理由により「倭大国魂神」は「大物主神」であると考えるのです。

余談ながら「出雲国風土記」に

飯梨郷(いひなしのさと)。
郡家の東南三十二里なり。
大國魂命(おほくにたまのみこと)。
天降(あも)り坐しし時、此處に當りて御膳食(みけを)し給ひき。
故、飯梨と云ふ。神龜三年に、字を飯梨と改む。 



大國魂命(おほくにたまのみこと)。
天降(あも)り坐しし時、此處に當りて御膳食(みけを)し給ひき。
と出雲に降臨したことが記載されております。

では本家本元では、どのように伝わってきたのかと言いますと
大正六年発行の「重清村誌」によると


で、このページの必要部分を集約いたしますと



こうなります。
「大國魂命」は「大國主」又の名を「大物主」。
念のため「阿波志」の画像を出しておきます。

延喜式亦小祀と爲す重清村谷口里に在り即ち廢城の東麓なり
神代紀註に一書に云ふ大國主神又の名は大物主神、又は國作大己貴命と號す又は葦原醜男と曰、又は八千戈神と曰、又は大國玉神と曰、又は顯國玉神と曰
其祠舊大祭料十緡(こん)、城主小笠原氏所割、兵燹に罹り小祀と爲る

うん、以上より「倭大國魂命」は「大物主」だと「ワタクシ」は結論付けますのです。

 続く







2018年4月30日月曜日

倭の神坐す地(2)

体調は最悪なんですけど、みんなが書け、書けっていぢめるんで泣きながら書いてます。(ウソ)

倭の神坐す地(1)
から続けます。
「薬王子神社(奇玉神社)」祭神が「大物主」であるならば、何がどうなるのか?
まずは「薬王子神社(奇玉神社)」近辺で「大物主」に関わりがあるところを探してみようではありませんか。

最初は、讃岐の「水主神社」

この社の御祭神は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

倭迹迹日百襲姫の悲劇
箸墓古墳と関連があるとされる伝承である。倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む。男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。
wikipedia

つまり、日本書紀では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記され、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。

いわゆる通説ではこうなっておりますが、とにかく阿波、讃岐近辺には倭迹迹日百襲姫を祀る神社が散見されます。
まずは、この「水主神社」。

社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる。

このあたりは昔の拙ブログ記事
水主神社(東かがわ市)(1)
水主神社(東かがわ市)(2)
水主神社(東かがわ市)(3)END
を読んでいただければ、御分かりいただけるかと思います。

蛇足ながら「水主神社」には「神陵」があることに留意いただきたいです。


また上の写真のように、本殿の右側には倭迹迹日百襲姫命の母である「倭国香姫命」を祀る「国玉神社」があることを憶えておいていてください。

続いて、讃岐の一ノ宮である「田村神社」


御祭神 倭迹迹日百襲姫命、吉備津彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命
    この五柱の神を田村大神という。
由緒 倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。
関連伝承は伝えられているようである。
1.境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。
2.境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。
3.神社の東三丁のところにある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。
まあ、ここについてはワタクシは
水主神社(東かがわ市)(3)END
で、書きましたように「妹」であったと考えております。

次に、香川県高松市仏生山町甲1147の「船山神社」。


由緒
 倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。比の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより祠を之を奉ず地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れり。創建は天平年間といい初め浅野村船岡山に鎮座あり、船岡山は古く百相郷に属し船山と称す。

倭迹迹日百襲姫に由縁と言われる場所がこのように見られるのがわかっていただけたと思います。
え、引田の安堵浦は?
艪掛神社は?
船岡山は?
鬼ヶ塚は?
ってか?
ごめんなさい、さらに数多、伝承地の存在は存じておりますが、全部書いてたらキリがないのと、倭迹迹日百襲姫命が本論ではないので、終焉の地と推測される場所に飛びたいと思います。

日本書紀 崇神天皇
是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姬命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居急居、此云菟岐于、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。

倭迹々日百襲姬命は大物主神の妻となりました。しかし、その神は常に昼は見えず、夜しか現れませんでした。倭迹々姬命(ヤマトトトヒメノミコト)は夫に語って言いました。 
「あなたさまは、常に昼は見えないので、ハッキリとその尊顔を見る事ができません。お願いしますから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗しい威儀(みすがた)を見たいと思います」 
大神は答えて言いました。 
「言理(言ってる事は)灼然(よく分かる)だ。私は明日の朝にあなたの櫛笥に入っている。頼むから私の形に驚くなよ」 
倭迹々姬命は心の裏(ウチ)で密かに怪しんでいました。夜が明けるのを待って、櫛笥(クシゲ)を見ると、とても美麗い小蛇がいました。 
その長さと太さは下衣の紐のようでしたので驚いて叫びました。大神は恥ずかしく思い、すぐに人の形になりました。 
「お前は我慢出来ずにわたしに恥をかかせた、わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」 
それで大空を踏んで、御諸山に登りました。 
倭迹々姬命は仰ぎ見て後悔して、座りました。 
急居は菟岐于(ツキウ)と言います。

それで箸で陰(ホト)をついて亡くなりました。 
それで大市に葬りました。世の人はその墓を箸墓と名付けました。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作りました。大坂山の石を運んで作りました。山から墓に至る人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運びました。

という伝承に基づき、一般的には
倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。
wikipedia
とされております。
が、阿波には


地図のように市場町に「箸供養」の地名が残されており、そう、そうですね「箸供養」は「市場町」すなわち「大市」となるべき場所になるのです。
なおかつ、「箸供養」からまっすぐ北にすぐ「大坂峠」が位置することは徳島県民ならばよくご存知の通りですし、さらに北方向には「水主神社」が鎮座しております。
この辺りの件については、当ブログを以前から読んでいただいている方々には規定だと思われますが、ご存知ない方のために念のため
空と風  船岡山の謎 ④ 天村雲命
awa-otoko’s blog  倭迹迹日百襲姫命の殯宮跡(箸供養)
をお読みください。
上記リンクを御読みいただいた方々には、蛇足ながら、「箸供養」と推定される場所の写真を掲載いたします。



うー、これだけで疲れたぁぁぁぁ(笑)

では、「大物主」を祀る神社は「薬王子神社(奇玉神社)」を別にして近辺にあるのでしょうか。
これについては
明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。
wikipedia

とある「金刀比羅宮(ことひらぐう)」を、まず挙げることができるでしょう。



金刀比羅宮(ことひらぐう)
明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。9月13日に勅祭神社とされた。象頭山松尾寺金光院は廃されて、祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変えた。明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。不動明王、毘沙門天の2体の脇侍仏は破却の危機に直面したが象頭山松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、あらためて金毘羅大権現の本地仏として祀られ現在に至る。松尾寺は、塔頭であった普門院が再興し、法灯を継承している。
wikipedia

こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう) は、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まります。
小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」延宝5年(1677)や、菊池武賢編「讃州府志(さんしゅうふし)」延享2年(1745)などには、それぞれ「この山の鎮座已(すで)に三千年に向(ちか)づく」とあります。
初め、大物主神を祀(まつ)り、往古は〝琴平神社〟と称しました。
中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、〝金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)〟と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。
その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復(かえ)り、同年7月に宮号を仰せられて〝金刀比羅宮〟と改称し、現在に至っています。
金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。
全国にある「こんぴらさん」の総本宮
大物主神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。
金刀比羅宮HPより

そして、阿波を知る方々には有名な話である「箸蔵寺(はしくらじ)」。

箸蔵寺(はしくらじ)
箸蔵寺(はしくらじ)は、徳島県三好市池田町州津に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は宝珠山(ほうしゅざん)。本尊は金毘羅大権現。明治初年の神仏分離令以前、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮がまだ松尾寺の管理だったころ同じ本尊という縁で交流があり当寺の方は、こんぴら奥の院と称した。そして、神社と寺院として交流が失われた今でもそのように云われており、神仏習合の風習を色濃く残す寺院である。


説明の書き方がちょっとわかりにくいんですが、要は「箸蔵寺」は「金刀比羅宮」の奥の院であり「大物主神」が祀られているということなのです。

阿波、讃岐近辺で「倭迹迹日百襲姫」と「大物主」に関わる神社などが出揃ってきました(もうちょっと書き足りないけど収拾つかなくなるんで、この程度で)。

けど、多分まだ何が言いたいのかよくお分かりにならないのでは、と思います。
実は、分からないように書いてるからです(笑)。
次回からは核心に入っていきたいと思います。

次は、そんなにお待たせしませんので(多分)。
続く

体力つけなくちゃ

2018年3月11日日曜日

倭の神坐す地(1)

さて、長らく間を空けてしまいました(汗)。
事情は色々ございまして、これから12回にわたって言い訳を書いていこうと思うのですが…。
あ、もういい?

このシリーズタイトルだけではなんのこっちゃ分からないと思いますが、おいおい分かっていく予定となっております(笑)。

さて、土成町に知る人ぞ知る「薬王子神社」が鎮座いたしております。

薬王子神社
阿波市土成町浦池字西宮64
御祭神 大己貴(おほなむち)命 徳島県神社誌
    大己貴(おほなむち)命 少彦名命  土成町史



承和年間(834-847)山田阿波介古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築く際に祝祭したと言い伝えている。一名薬王権現とも云い疫病流行の際、祈願して、霊験あらたかであったとも云う。又、池の守護神とも尊崇し、大池の西にあるので「西の宮」とも呼んでいる。
徳島県神社誌

薬王子神社
 浦ノ池の氏神で「西の宮」とも呼ばれる。神社の起源は古く、伝承によると、承和(9世紀)の昔、阿波の国司としてやってきた山田古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築いた時に祝祭した。この神は疲病流行の時祈願すると効験あらたかで、「薬王権現」と称されていた。明治元年奇玉(くすたま)神社と改め、更に明治100年に当たり薬王子神社と改めた。神社には古い棟札が残され、現在の社殿は嘉永元年(1847)のものである。
 この薬王権現は、日和佐の薬王寺のもとで、こちらではやらないので日和佐へもっていった。厄除けはこちらが本家と宣伝をしたのが効いたのか、10月の祭礼には多くの参拝客が訪ずれるようになった。  阿波学会研究紀要

と、いうのが神社由緒の簡単なご紹介になるのですが。
簡単には日和佐の薬王寺の元となった神社であります。
御祭神については

大己貴命
別名
大穴牟遅神/大名持神/大汝神:おおなむちのかみ
大国主神:おおくにぬしのかみ
大物主命:おおものぬしのみこと
八千矛神/八千戈神:やちほこのかみ
大国主とは、大国を治める帝王の意味。大黒様としても知られる神。

大穴牟遅とは、大名持で、功績多く著名なという意味であり、また大地持(地をナと訓む例には地主(なぬし)・地寄(なよせ)などがある)。

八千矛とは、多くの矛を持つ神、即ち武威の神名。宇都志国玉は現国御魂の義で、現在の国の守護神。
『播磨国風土記』神前郡の八千軍野は、天日桙命の軍兵が八千人であったからと記されている。 八千の日桙軍が八千矛と考えると、天日桙命の伝承の一部が混在しているのかもしれない。

玄松子の記録より

少名比古那命は、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。 wikipedia
となります。
大己貴命の説明がやたら多いのは別名があまりにも多いからなのですが、要は大国主命であり、大黒様であるわけなのです。

さて、この「薬王子神社」、阿波国司として赴任した山田古嗣(ふるつぐ)が灌漑対策として「浦池」を作った時に奉斎したとされており、灌漑工事が記録として出てくるのは下の写真「文徳実録(もんとくじつろく)」が初出であるのです。
『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書。六国史の第五にあたり、文徳天皇の代である嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間を扱う。略して文徳実録ともいう。編年体、漢文、全10巻。wikipedia


相摸權介從五位上山田宿禰古嗣卒 古嗣 左京人也 越後介外從五位下勳六等益人之長子也 爲人廉謹 而寡言辭 幼歳喪母 敬事從母 天性篤孝 甞讀書傳 至於樹欲靜而風不止 子欲養而親不待 流涕不禁 卷帙爲之沾濡 弘仁十二年丁父憂 哀毀過禮 天長三年爲陸奧按察使記事 五年爲少内記 六年遷爲少外記 承和元年轉爲大外記 公卿大臣以備顧問 推薦文士 多見納用。故人仰之。十三年出爲阿波介 政績有聲 阿波美馬兩郡 常罹旱災 古嗣殊廻方略 築陂蓄水頼其灌漑 人用温給 後爲相摸權介 病卒於官 時年五十六

で、この「薬王子神社」下、大正十年の土成村史を見てみますれば

ごめんねスキャンが傾いちゃったの(^^);


当時は「奇玉神社(くすだまじんじゃ)」と呼ばれており、それ以前は「薬王子権現」と呼ばれていたことが読めます。
祭神の一柱である「少彦名命」が医薬の神様とされており、神仏習合の際に薬王子とされたことから薬王子権現とされ、日和佐に移って「薬王(寺)」となったわけです。
まあ、これはわかります。
では何故「大己貴命」が相祭されているのでしょうか?

古事記、神代巻 大国主の段を引用いたします。

故、爾れより、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の小名毘古那神は、常世国に度りましき。
故、其小名毘古那神を顕はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曽富騰といふぞ。此の神は、足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり。
是に大国主神、愁ひて告りたまひけらく、「吾独して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の国を相作らむや。」とのりたまひき。
是の時に海を光して依り来る神ありき。其の神の言りたまひけらく、「能く我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らず国成り難けむ。」とのりたまひき。
爾に大国主神曰しけらく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。

つまり、
大国主神(大己貴命)とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れと、自分を祭るよう希望した。これが御諸山の上に坐す神である。
という一節であります。



「お前は何が言いたいんだよぉぉぉぉ!」
と仰るでしょうけど(いわない?)、端的に言っちゃえば
「奇玉(くすだま)」は「奇魂(くしみたま)」のことでしょう、ということです。
「玉」⇄「魂」は古事記、神道云々を特に挙げずとも、よく見かける表現ですよね。

つまり御祭神が大国主神(大己貴命)と少彦名神であることより「奇玉(くすだま)」の社名はこのエピソードより採ったものだと考えるのですが、そうであるならば、「大国主神(大己貴命)」の幸魂奇魂というのは「大物主」であるので、当社の「本当の」祭神は
「大物主」
ではないかとの想定ができるのです。

大物主は、海を照らし現れた神で、蛇神であり、水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきた。このことから、最も信仰古き神々の内の一柱とも考えられる。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父にあたる。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。また、三輪氏の氏神でもある。wikipedia

この「奇玉(くすだま)」=「奇魂(くしみたま)」については土成町の「総合学術調査報告」な内の「土成町における神社の変遷の概要」にも記載があり、あながち的外れとも言えないように思います。

ちなみに「薬王子神社」の大国主神(大己貴命)は「大黒天」摂社として祀られています。

(うーん、「薬王子」が「薬王寺」になってる…)

では「薬王子神社(奇玉神社)」祭神が「大物主」であるならば、何がどうなるのか?
次回より話を進めていきたいと思いますが、シャレにならないくらい、ワタクシ弱ってますので(いやマジで)、いつ途切れるやもわかりません。
そのあたり、力尽きたらごめんなさい。
続く

今、こんな感じ(笑)